今、半日在宅勤務を終えて出勤する電車の中でこれを書いている。駅に着く直前、定期券の更新を忘れていたことに気がついた。とはいえ電車がもうホーム寸前まで来ていて余裕がなかったので、更新しないまま改札を通って今に至る。

もうとにかく最近は万事がこの調子で、あらゆるタスクが後回しになり、取りこぼしが複数発生している。やることの多さにも関わらず手帳は白紙である。自分が今何を抱えているのかも判然としていないし、それを落ち着いて整理しまとめる余裕もない。

余裕というのは身体的だったり精神的だったり色々な種類がある。確かにそれらもないのだけど、感覚的にはやはり時間の余裕がないと言える。客観的に見れば時間はたくさんあるのだけど、やはり時間の余裕がない。時が早く過ぎるのではなく、自分が遅いのである。

うつ病をやった人の多くはわかると思うが(うつ病の症状は人それぞれなのでわからない人もいると思う)、単に気力がなくて物事をこなせないという以前に、自分の動作が遅くなるのである。例えば歩行が顕著だが、通行人にはバシバシ追い抜かれるし、並んで歩く人にはどんどん離されてしまう。別にトボトボ歩いているつもりはないので、周りが早いだけな気がするのだけど、別に周りも早歩きには見えない。遅いのは自分なのだ。客観的に見ればトボトボ歩きでしかなく、足を引きずってることすらあるのだけど、人から指摘されないと気づかない。これは割と不思議な感覚で、寛解してみると、周囲も自分も感覚的には速度が変わっていないはずなのに、並んで歩く人に置いていかれなくなっていた。

例えば徹夜をしながら音楽を聞いた時、テンポが早く聞こえるようになった経験を持つ人は多いと思う。それはおそらく、脳みそが時間をとらえる動体視力のようなものが機能低下した、要するに感覚が鈍くなったことで起こるのだろう。これはフレームレート、fpsの高低に似ている気がする。fpsとはframes per secondの略だが、フレーム数を感覚の回数と置き換えれば、60fpsの人間と比べ30fpsの人間は時間を2倍も早く感じるに違いない。単位をひっくり返してseconds per frameにすれば、1フレームあたり何秒の時間が過ぎるかという意味になり、感覚がわかりやすい。1fpsの人間にとってはフレーム1回あたり1秒の時間経過だが、0.5fpsの人間にとっては2秒ずつ経過する。

しかし上述したうつの時間感覚(私の場合だが)はこういうものではない。fpsは変わらず、ただ自分のパフォーマンスが落ちる。これを時間の余裕がないと感じるかどうかは人によると思う。自分を無能だと責める人の方が多い気がする。私もどちらかと言えばそっちなのだけど、しかし自分の無能さも一朝一夕では如何ともし難いものではあり、責めるだけ責めても当分は無能のままなのだから責め損である。気持ちが落ちて余計無能になるのがオチだ。

そういう打算的な発想は抜きにしても、目の前にタスクが溜まっていると、自分を責める余裕がない。これがいいことに聞こえるタイプの人も世の中には大勢いるが、別にいいことでもなんでもない。責める余裕すらないのはただの自転車操業で、どこかで抜けないと行く先は破滅だし、抜けたらその時点で責める余裕が生まれるだけだ。省みる余裕と言い換えれば印象も変わるだろう。無能と言うのもパフォーマンスが悪いなどと言い換えると幾分柔らかくなるし、私にいたっては自分が無能であることを「余裕がない」と言い換えているフシもある。

と、こんな文章をダラダラ書いているうちに、午後の仕事は終わり、残業をし、帰りの駅で定期券を更新した。券売機にPASMOを入れてクレジットカードで半年支払い。簡単なものである。しかしこれができなかったのだ。当たり前だが、別にここしばらく駅を使わなかったとかいうわけではない。平日は毎日通勤し、土日も電車で出かけた。たまにやり損ねるなら忘れたという言い訳も聞くが、毎日駅を使って改札で定期券は何日までと表示されるのを見ているのに、それは通用しない。

つまるところ、その時の私は「定期券を更新するどころではなく」、「更新はまた余裕がある時でいいか」と後回しにしていたのだ。結局期限が切れて尻を叩かれたように更新することになったのだけど、そう書いてみると、子供の頃に夏休みの宿題が終わらず結局出さなかったことを思い出さずにいられない。後回し癖は何十年経っても直らないが、思うに、物事を処理するスピードがもともと遅いため、後から入って来たものに押し出され、優先順位が一定以下のものにいつまで経っても取りかかれないのだと思う。出勤する時も帰宅する時も、そのことだけで頭が埋まり、改札前でゆっくり考える余裕がない。

半日かけてよくわからない文章を書いてしまったが、今日定期券を更新できたのはこの文章を書いていたおかげだろう。ふと券売機に目をやった時、定期券のことを思い出すことができた。まあ、一つやるべきことをやれたということで、書いた甲斐もあったと言うべきかもしれない。でもこんなのを書いている暇があるなら散らかったタスクをまとめるべきでは?

昼から合間合間で書いて、もう日付が変わってしまった。寝ることにする。明日は休暇を取っているので、寝坊してやろうと思う。最近、休みの余裕は疲れを癒すことのみに当てられている。今日ふと思ったのだけど、近頃は生活の本分としての休みではなく、労働のための休みになってきている。よろしくない傾向だが、結局のところそれも、瓶から溢れた労働が休みに漏れ出ているということなのだろう。余裕という空白がなければ、全てが混ざりあってしまうのだ。

おやすみ。