今日はお休みを取った。せっかくの休みではあるが、GWも含めて、全く有意義に過ごせていないため、今日もそんな感じになるだろう。休みについてそういう損得勘定をするのはあまり健全ではないかもしれないが、しかしGW中ほとんど何もせず過ごしたと言うとさすがに度が過ぎている感があり、そう思ってしまうのも無理はないといえる。

さて、起きたら下記のようなニュースが出ていた。

国の借金、過去最大1216兆円
20年度末、5年連続で更新

「国の借金」「国民一人あたり」よくある国の借金論である。このレトリックが誤解を誘導するものであることはもう周知されているので、Twitterでは当然反緊縮派にケチをつけられまくっている。こういうしょうもないことをしていると、普段は騙されないぞ真実を見抜くと言いながら騙されている陰謀論者でさえ、そのスタンスが珍しく見事にハマる。個人的には陰謀論者に本物の成功体験を与えてほしくはないのだけど、しかたがない。

とはいえ、どういった欺瞞なのかというのをフラットな視点から説明する文章というのはあまりないと思うし、私もよくわかっていない。周知され常識となると、逆に私のような表層的な理解が蔓延してしまい、玉石混交で言えば石だらけになって玉が埋もれていく。あるいは詳しそうな人でさえ、こうするべきだという過激なイデオロギーに基づいて解説したものも多く、それはそれで信用に欠ける。

なので、結構前に見つけた文章ではあるが、そこそこフラットっぽい説明へのリンクを張っておく。

「国の借金」というレトリック | 西 孝 – 世界経済評論

国語の話として説明されているが、補足すると、国語の話で言えばたしかに「国民一人あたり」とだけ言えば「国民一人あたりに政府が負っている債務の平均」と解釈することは十分可能だし、「将来世代への負担」は「将来世代に対して政府が負う負担」と解釈することも可能なので、このレトリックを嘘だ欺瞞だと言えば「いや、嘘ではない」と言い張り突き返すことは不可能ではない。しかしこの場合「嘘だ」という側は「国民が負っている負担というのは嘘だ」と言いたいのに対して、「嘘ではない」という側は「政府が負っているので嘘ではない」という意味である。しかしそれは詳しく説明しなければ話がすり替わっていることはわからない。まさにそれがこのレトリックの欺瞞である。

この欺瞞の核心はリンク先でも次のように書かれているとおりだ。

(引用)

昔から庶民は,政府を「お上」とか「お国」と呼んでいた。だから「政府の借金」も「お国の借金」も,庶民にとっては似たようなものなのだ,とでもいうのだろうか?

(引用終わり)

つまり、このレトリックで言っている「国」とは「政府」のことなのだが、一般的には「国」は「国民」を含む概念だ。日本はすごいんだと言われて、日本政府(だけ)がすごいと言われていると解する人はあんまりいないと思う。だから「国の借金」「国民一人あたり」などと言えば「日本国民が何かに対して負っている借金だ」という印象を与えられる。

このレトリックの根底には「国とは政府である」という前提がある。あえて誤解を狙ってそう表現するのも問題だが、仮に無邪気にそのような認識の元で発しているとしたら、それはそれで問題である。そこには政府主権的なイデオロギー、即ち政府に従属する立場として国民を位置づける価値観が垣間見えないか。まあ日本においてはそうした価値観は珍しくないのだけど。

と、偉そうに書いてはみたが、最初に書いたように私は経済については全くわかっておらず、リンク先の文章に完全に寄りかかって「国語の問題」として考えたに過ぎないので、国語以前の前提が間違っているかもしれない。

レトリックを駆使して煙に巻くタイプの話……要するに詭弁というやつは、実のところかなり説得力がある。説得に特化したレトリックを用いているからだ。さもわかりやすく解説したように見せて話をずらしていく。特に例え(比喩)については注意するべきで、議論の中で何かしらの例えが出ればまず話者に都合よく話をずらされていると考えていい。

例えば、ぶどうジュースみたいなものだからと説き伏せられてワインを飲まされる時、飲まされる方は味やアルコール分を気にしているのに対し、飲ませる方はあえて原料にフォーカスしてぶどうジュースに例えて説き伏せている。全然ぶどうジュースと味違うじゃないですか!と怒られても「ぶどうの絞り汁には違いないじゃないか」とすっとぼけられるのである。当然こんなやつの勧めるものは二度と口に入れたくない。

……と、私自身何かを説明する時に「例えば〜」などと言って奇妙な例えを作り始めてしまい、話がズレてしまったと後から反省することが多い。「例えば〜」で始まる例え話や「〜のような」とつく直喩なら簡単にそれとわかるが、「国の借金」もまさしく例え(隠喩)である。ただしこのような隠喩はなかなか誤った例えかどうか直観的にはわからない。

レトリック自体は悪いものではなく、むしろ言語表現を言葉の数に関わらず無限に広げてくれるツールだと思うのだけど、なにしろ過去レトリックと言えば修辞学、弁論術、説得術といったものを意味し、まさに相手を丸め込む技術そのものだったわけで、今扱っている言語表現としてのレトリックもその内に含まれていた以上、やはりそうした目的にも大変な効果がある。

とはいえ騙されないぞと気を張っても、普通に騙されるどころか、余計に騙されやすくなり陰謀論などに走ってしまうので、あまり気にしない方がいいような気もする。

私の中では先述したとおり、「例え話をしだしたってことは、なんか俺の話どんどんズレてないか?自分にとって都合よくねじまげた説明じゃないか?」と自覚するための指標にはしている。ただ、先程のワインとぶどうジュースの例え話はわりと話に合っていた……と思いたい。

(追記)

一個だけではなんかアレなので、上述の世界経済評論の文章と方向性の似ているそれっぽい文章を追加でぺたり。

政府の借金は将来世代への負担の先送りなのか – 経済深読み

公的債務と将来世代の負担 | “ウォーキング・エコノミスト”が語る、世界経済・日本経済のこれから | 伊藤元重 | キャリタスファイナンス