今日は都議選の投開票日だったので、夕方近くになってからおもむろに投票会場へ向かった。
雨が降っていたけれどもまあ会場わりかし近いしイケるやろと舐めて歩いて行ったのだけど、30秒くらい歩いたところでギリギリ許容範囲外の降り方だったなと気づいた。
そこで鞄から折り畳み傘を取り出そうとしたところ、家に忘れてきたことに気付き、帰るのも面倒なのでそのまま雨に濡れながら投票を済ませてきた。

以前にもどこかで書いたが、私は勢力のバランスが重要だと思っているので、都知事選では負ける候補に投票したし、今回も絶対に少数派になる政党に投票している。まあ、公約だとか人となりを見ていないわけではないし、それらを考慮してある程度納得のいく人に投票しているのだけど、結局のところ実際にどう仕事をしてくれるかは測りづらいところがあるし、結局所属政党におもねって活動することになる。
とはいっても正直今回は(今回も)ウチの区では選択の余地がなかった。与党(になりそうな党)か、日和見的に与党と連帯するタイプの野党、つまり実質多数派が見込まれるところばかりで、それら以外の(少数派になりそうな)政党は一つしかなかった。まあしかたがない。一つでもあっただけマシだ。

今日も投票を促す言葉がSNS上にたくさん見られた。投票で政治を変えよう、政治に意見を届ける唯一の機会だという表現もよくある。
私もこうして投票しているので、投票の意義を否定するものではないのだけど、多少の疑問符もつく。

他所の国がどうかは知らないが、日本では熱心な政治活動は嘲笑・敬遠・恐怖の対象だ。デモに参加したなどと言えば9割がた引かれるし、署名運動や特定政党への投票についての呼びかけもけっこう引かれる。SNSで強く政治に関する発信をするのも非常にウケが悪い。こうした活動を非効率的で非社会的で愚かしいと感じ、自分はもっと賢く政治に関われると思っている人は多いのではないか。私も昔はそうだった。そうした人にできる政治活動は投票行為のみであり、だからこそ政治に意見を届ける唯一の機会だという表現が出てくるのだろう。

しかし選挙というのは言ってみれば、ビーフオアチキン?と聞かれてビーフを選ぶようなもので、選択肢が最初から提示されているものだ。「選択の余地がない」などと愚痴を言いながら与えられた選択肢をただ無批判に選ぶだけと表現すると、ずいぶん受け身な印象を受ける。
例えば女性には女性議員へ投票したい人というのが一定数いると思うが、その区に女性の候補者がいなければ投票しようがない。そうした状況をただ放置して無批判に投票するだけであれば、いつまでたっても女性の代表者は政治に参加できないだろう。
もっと極端な話をすると、日本にもミックスは年々増えていると思うが、選挙においてそうした属性を持つ候補者はほとんど見かけない。ミックスの親は在日外国人だったりもするだろう。これはその自治体におけるミックスや在日外国人の環境や権利を考える上ではかなり憂うべき状況だと思う。
もっと私自身に身近な話をすれば、私はオタク文化を大切に思っているけれども、オタク文化を理解している政治家というのはほとんどいないわけだ(まあ、いたとして私個人がその人に投票するかは別の話だけど)。

何が言いたいかというと、選挙というのは選択肢を作るところからすでに勝負が始まっている、というか勝負がついているということだ。
その選択肢を作っているのは誰なのか。それは言わずもがな、先に嘲笑の対象と書いた、熱心に政治活動をする人々だ。彼らが私たちの知らないところでデモやら署名やら講演会やらなにやら政治活動をして票田アピールを行い、自分たちに都合の良い代表者を担ぎ上げ、選挙の選の字もない時点から資金を集め草の根活動をし推薦等の根回しをはかった結果だ(私は政治活動に疎いのでこれが正しいかはわからないが、まあおおむね間違ってもいまい)。その時にはもう組織票のアテもついている。
言ってしまえば私のような人間は、非効率的で非社会的で愚かだと思っていた人々に政治的選択肢を押し付けられ、それを拒むこともできないのである。一番愚かで無力なのは私ではないか。

投票を促す運動はどんな場合でもあってしかるべきだが、現在行われるそれは投票率が低いことを受けて行われている。投票に意義を見出さない人が無視できない多数いるということだ。
投票がなぜ無意味に思えるのか、それは自分の一票にかかわらず大勢によって政治の方向が決まっているように思えるからだ。自らの一票が大勢を作るという意識が薄い。選挙以前に形作られる大勢と選択肢をただ受け入れて選ぶしかない自分自身に政治的無力感を覚えるのはある意味当然と言える。その実感はある面では正しい。
反面、そうして事前に諸々が決まっているからこそ、そうした無力な一票を各勢力は求めまた警戒するのだ。投票をしない人々や浮動票は潜在的に選挙の全てを決めるワイルドカードだ。しかしそれは無力だからこそワイルドカードたり得るという矛盾をはらんでいる。
自分の意見を政治に反映する以前に選挙にすら反映されず(反映されるために活動しなかった)無力感をもつ人々に対し、それでも投票に行けというのは、いささか都合が良すぎる理屈に思える。
探せばきっとあなたに合った政党・候補者が見つかるよ!などとアピールされたところで欺瞞を感じずにはいられないだろう。合った投票先が見つかったとて、結局いきなり押し付けられた選択肢からむりやり選ばされたような印象が残ってスッキリしない。

なんとなく、そういった風なことを思う。

根本的なところでの解決策は、選挙のたびに投票にいけと呼びかけるよりも、平時から政治に多少なりとも関わった実感を持てるようになることだと思う。
選挙の選択肢に自分の考えがほんのわずかでも入っている感覚、自分事である実感こそ重要なのではないか。こうしたところは社会で大なり小なり迫害対象となっているマイノリティほど切実に実感すると思う。
別に直接政治活動に関わって候補者を探して擁立しろという話でもないが、日本では政治活動がカジュアルでなさすぎることが政治への縁遠さを際立て、選挙のナンセンスさを増している気がする。
結局のところよく言われるように、政治への無関心・忌避感情が根本的な問題なのだけど、それがどこから生まれているのかについては考える余地が多分にあるだろう。私はそれは、前述したような政治活動への嘲笑の根源にあるものと同一だと思う。
ちょっと夜がふけ頭がはたらかなくなってきて、文章が変になってきたのでここまでにしよう。

ちなみに今確認したところ、私の投票した候補は当確していた。そもそも支持基盤がしっかりしていたから既定路線ではある。
つまり私の雨に濡れた一票は、当落のうえでは大した意味はなかったのだ。それはその候補にどれくらい思い入れがあるかで、意味の感じ方が変わってくる。
私は全く思い入れがないので、いつも当落が決まった時は結果に関わらず大量の票の中での自分の一票の無意味さに虚無感を感じる。今回もそうだ。
しかし思い入れが強ければ、当選した時には自分の一票の意義を感じるはずだ。きちんと代表者として活動してくれるなら、そのたびに投票してよかったと思うかもしれない。
落選した際には悔しく虚無感に襲われるかもしれないが、その一票が候補者やその政治的同士を多少なりとも支え、今後の活動に寄与すると考えることもできるのではないか。
私は一切そのような実感がないので、まあ何かしら絶対票数なり投票率なりで自分の一票に意味があったと理屈上だけで考えて割り切ることにしているが、それでもなんとも言えない虚しさはある。
私の投票行動は決まったルールで完全にパターン化しているので、代わりに機械が投票してくれた方が手間が省けて嬉しい。

実際政治活動も悪くはない。海外のデモなど見るとわりと楽しそうだし(当人たちは怒っているのだろうけど、一体感が得られるのは快感でもあると思う)、自分を見つめなおす機会にもなりそうな気がする。
ちょうど最近アメリカでのアジアンヘイトへの抗議デモの映像を見て、自分のアジア系としてのアイデンティティを実感したところだ。

まあ、とはいえ、私は他のことで手一杯なので熱心な人々に任せ、今後も与えられた選択肢からぐちぐち言いながら投票しようと思う。

(7/6追記)

寝て起きたら投票率がめちゃくちゃ低いと話題になってたのでちょっと追記というか要約というか噛み砕いた話になるんですけど、投票率が低い(投票しない人が多い)のは普段から政治に関わる機会が損なわれている事が根本的な原因だと思う、ということが昨日は言いたかったんです。一票の格差とか、学習性無力感とか、具体的なポリシーとかは投票率についてはあんまり重要ではないんじゃないかという。

だってそれって元々政治トピックに積極的な人だからこそ一票の格差をことさらに気にしたり「投票しても政治は変わらない」とかいう感想(学習性無力感)が出てくるわけで。無力感は確かにありますけど、それは投票を繰り返して学習するタイプのものではなく、投票以前、選挙の前からあるものではないかな。候補者の選択肢についても、自分がいかなる形でも関わりを持ってないから妥協点が見つからないところがあると思います。

政治との関わりはまあ、政治について本腰入れて考えてみるとかでもいいんですけど、それすら既に政治に関心ある人の関わり方ですよね。その程度のことがカジュアルでないというのが日本の問題なのかなと思っています。

投票しなかった人を責める風潮は昔からありますけど、投票しないタイプの人と完全に認識がズレていて分断があるんですよね。多分。私は投票するタイプの人なのでアレですけど。投票するタイプの人は投票で自分の意思を政治に少しでも反映させようと思ってますけど、しないタイプの人は思ってなくて、たぶん選挙というステージが既に自分の意思を微塵も反映してない茶番なんですよね(そう自覚的に思っているかは別として)。選挙に限らず全ての政治的事象がそう。なぜなら自分は現に関わっていないから。であれば投票はただの現状追認行為でしかないわけです。

じゃあ関われよという話ですよね。わかります。でも関わりづらい風潮を作り出していませんか?身近なコミュニティで政治活動する人を冷めた目で見ていませんか?政治家を見下していませんか?投票しない人に対して頭ごなしに投票しろと言って選挙が終わったら責めるのは、余計に分断を深めていませんか?そうしたことをやめろとは言いませんが(政治活動が直接的に迷惑なことも多々あるし)、立場を問わず、政治との関わりを阻害するものが多すぎるように感じます。投票するタイプの人だって、普段から政治的影響力を行使するわけでもなく与えられた選択肢を現状追認的に選んでいるだけ、ということになりかねません。結局私自身がそんな感じですし。

そうしたものの元を辿れば排斥への恐怖と不安感があるのかなと思っていて、まあ元を辿ればキリがないんですけど、たぶん根は深いよなあと思います。だからこそ、選挙の時だけ、投票が唯一の政治参加、という勧め方をするのは表層的すぎるんではないかなあと思うところです。