標題のような表現を目にしたことのない人は少ないだろう。最近もまた目にしたので、少し思うところを書く。なんか最近政治だのコロナだのなんだのお固い物申し系の話ばかり書いていて違和感があるけれども、まあ書いてみる。

まず前提として、標題のセリフは差別的行為を行った(その結果非難された)人が発するもので、その意味はいくつかあるが、だいたい「たしかに差別的行為だったがそのつもりはなかった(ので差別していない)」「そもそも差別的行為と認識していない(ので差別していない)」の二つに大別できる。要するに自分は差別主義者ではないと言いたいのだけど、この際当人の認識は問題ではない。そもそも本来差別とは無自覚なものだからだ。差別主義者ではないと自認する人こそが差別問題の主体なのだ。

差別と聞くと最近はまず黒人差別を思い浮かべる人が多いだろう。白人至上主義者(例えばKKKとか)が黒人に対し悪意ある行為をする。そしてそれらについて「あっ黒人だ、いじめてやろう」という感じの行為だととらえている人は多いのではないか。

たしかにそういうことはあるだろうが、差別の本質は社会的なものだ。その社会で容認された当たり前の振る舞いなので、普通は疑問を持たないし、いじめてやろうなどという悪意もない場合が多い。制度化されていればなおさらだ。善意に基づいた差別すらある。そして社会として合理的なことも多い。というか、普通は被差別層から搾取をしているわけだから、差別層の支配する社会にとってはそりゃ合理的なのが当然である。まあもちろん、差別以外にも時代で常識は変わるので、その時代にはその時代の合理性があり、現代から見れば非合理なものもあるとは思うけれども。

そうしたタイプの、社会に組み込まれた差別について現代の価値観でわかるように例示しようとすると、どうしても現在進行形で日本社会に定着している差別ばかりになり、怒る人(自らの考えや行為を差別だと言われた人)がたくさん出てくるので、ここでは例示しない。ただそれらの差別を行ったり容認している人は非常に無邪気に当然のことと思っているし、人によっては正義感に燃えてすらいる。ただまあ、正義感に燃えている場合は、現実が望むとおりでないことの裏返しなので、ある程度自覚してはいるかもしれない(正義感に燃える人は差別主義者だ、と言う話ではない)。

たとえば白人至上主義の人種差別はもう周知されきっていて、そんな事を言えば四方八方からそれは差別だよと指摘が入る。白人至上主義者は現代では不正義とみなされている。なので当人もある程度自覚してはいて、悪意交じりで差別的行為をしているかもしれない。しかしそもそも差別というのは不名誉なレッテルなので、自分が差別をしているとは誰も認めたくない。白人至上主義に正当性があると本当に共感しているなら、それが差別であってはいけないのだ。つまり、これは差別ではないと内外に正義を主張する必要が出てくる。そうすることで、冷めた目で見られている自分自身を慰める。

あるいは、非難される差別的行為をあえてやってみせることで、自分の正しさを追認することもできる。例えばアジアンヘイトでアジア人を殴ったとしよう。この場合普通に想像できるのは「アジア人は下等だから殴った」というような理由だ。しかし一方でまず殴った後に、「俺はアジア人を殴った。だからアジア人は下等だ(俺はアジア人を殴れる立場の人間だ)」と倒錯して追認するということもできる。

まあ、このような攻撃行為による追認については、何かある度に言っている私の持論に過ぎないし、とりあえず心理面について書いたことは忘れてもらっていい。こういうのは基本的に自分に置き換えての想像、つまり自己紹介にしかならないので、「お前はそういう考え方するやつなのね」くらいに思ってほしい。私が言いたいのは、差別は本来差別と自覚されないので、このような心理的な動きすら起こさないということだ。

なので、全く差別だと認識されていない差別が世の中には数多存在する。それらについては私もほとんど認識できていないだろう。先進的な価値観の持ち主や被差別層が声を上げた後世にならなければ、同時代同社会に生きる私たちはそれにほとんど気づかないし、無自覚のうちに限りない差別的行為を繰り返し、差別から生まれた富や娯楽を享受して生きている。また今度創作とポリコレについてもなにか書こうと思っているのでそこでも書くけども、創作もまた差別を組み込んだ娯楽だ。

差別問題だと社会が気付き表面化しても、長い年月を経てなお差別は残る。価値観や制度の上で差別がほとんど消えても、差別の痕跡は格差としてさらに長い間残る。そして格差がまた別のラベリングを生み、差別と分断が生まれる。

キリがないと思うかもしれないが、差別に限らず、そういうキリのない問題に延々と対処し続けることで社会は営まれていると思う。差別は社会のシステムに組み込まれているが、社会を構成するのがあくまで人である以上、人を蔑ろにするシステムを改善しようというのは自然な流れだ。同様に、多数のために少数を犠牲にしようというある種の「合理的」なシステムへ進もうとするのもまた自然ではある。

まとまりがなくなったのでそろそろ書くのを止めるが、要するに、「差別の意図はない」という弁解はまさに典型的な差別の表れということだ。意図があってやったならなお悪いというだけで、意図がないのはなんの弁解にもならない。差別に対して一度も真剣に考えたことがないという表明に過ぎない。

まあだからと言って、差別をした人に対してあまり非難しすぎるのも話がおかしくなってくる。差別は社会的なものだとさんざん書いたけども、その観点から見ると、個人攻撃と処罰感情に傾いていくよりも構造への問題提起と議論を優先した方が建設的かと思う。ただ、じゃあ大目に見ろという話でもないし、個人が(加害者か被害者かが)運動のアイコンと化すのもよくあるので、それは一概に言えない。

そもそも、よし差別してやるぞ俺は差別主義者だと思って実行するような人は差別云々以前に単に極めて性格が悪いのだから、差別の意図があった時点で差別問題とは少し話がズレる気がする。よしんば差別の意図がなくても、例えば「アジア人は醜いなあ」とかアジア人のいる所で言えばそれは「こいつは醜いなあ」と言ってるのと同じである。紛れもなく差別は差別だけども、それ以上に当人の人格的問題が大きい。差別の事例が話題になる時は往々にして人格的問題がセットになっており、そうしたところで問題の混同が起きるのかもしれない。

まとめの言葉は思いつかないのでここで終わる。