東京五輪の開会式でゲーム音楽が使われた件についての文章を先月書いて載せてたんですけど、読み返したら気が変わって削除しました。なんかこう、しょうもない文章になったなと思ったので。

私は載せた文章については載せたあとも何回か読み返すので、読み返してこれダメだなって思ったら消します。

ただ普段は別に消しましたとあえて書くこともしないんですけど、今回は消した文章で言いたかったことというか文章の要点を書き直しておきます。納得いかなかったらまた消すかもしれないけれど。なんか塩漬けしてたら一ヶ月経っちゃった。まあいいか。

背景としては、まず東京五輪の開会式において、五輪を楽しむ声がTwitter上で一気に顕在化しました。開会式前までは反対ムードが強かったため、反対ムードだったのにいざ始まると五輪に乗っかって楽しむのかと批判が起こります(これは個人ではなく総体・風潮に対しての批判だと思います)。

とくにTwitter上で目立っていたのが、開会式にゲーム音楽が採用されて盛り上がるゲーム好き(オタク)の騒ぎでした。一方で五輪がゲーム音楽を採用したことについては開会式の最中から同時並行で批判も起こっており、その中ですぐにオタクの盛り上がりが槍玉にあがった結果、「オタクはゲーム音楽さえ流せば全て忘れて喜ぶからちょろい」と批判されたりバカにされる流れができました。で、それに対して「ちょろくて何が悪い」とか「楽しむのと反対は両立する」とか開き直った反論が出た感じです。

まず、最初から全く五輪反対でない人が喜ぶのは当然ですし、反対だったけどいざ始まってみたら楽しんだから全部撤回して五輪万歳という人がいてもそれもおかしくない。ゲーム音楽に絆されたのかと責められてもおう絆されたわ!やっぱ五輪最高や!と言えるのはいっそ清々しいですね。まあ、そんなキレイにひっくり返るタイプの人というのは信用的にどうなんだという問題がありますが、「ちょろい」と言う人は相手の内心の矛盾を突くことを狙っているので、100%手のひらを返せて何も思わないような人間性には勝てません。とはいえそんな人はほとんどいないでしょう。

じゃあ楽しむのと反対は両立するのかという話ですが、することはするけど相互に影響するのは避けられません。人間は矛盾した感情を同居させられるので、内心的な感情の点では間違っていないですが、逆に言えば内心の矛盾の存在を肯定してしまっていますし、やはりそれは主張として総合するとある程度相殺されてしまいます。五輪反対の立場を取ろうとするためにそのもつれから目を背けて、楽しむことと反対することを完全に切り分けてしまおうとする人が今回多く見られました。立方体を6つの四角形に切り分けてそれぞれ無関係のものとして語るようなものかなあと思います。

大事なことは賛成派反対派というポジションではなくて、五輪の多面的な要素を総合した見方で自分なりに考えることであって、その結果結論が出ようが出まいが、賛成派反対派どちらになろうがどちらにもなれなかろうが、それ自体は大きな問題ではないんです。ただ、賛成とか反対とかいう立場を正義と信じ依存して威を借りているだけの人は、その立場を守るために都合よく物事を単純化して話してしまい、問題意識の低さを露呈するわけです。

インターネットなどの、言いっ放しが説得力を持ちコミュニケーションが軽んじられる場においては、残念ながらそのような人が多くなっています(私も含めて)。正しい立場に立たなければ・間違ったことを言うとバカにされる、マウントを取られるという不安感に基づいて発言してしまう。結果、今回はそれを見透かされてしまいました。「ちょろい」とバカにした人からすれば狙い通りです。問題意識が高いフリをしている相手が実際はマウントを取り合う勝ち負けの土俵にいるということを暴けば、あとは相手にしか心理的な弱みがないので一方的にそこを突き放題です。

加えて、五輪というイベントが特殊な意味合いを持つことも両立の難しさに輪をかけています。ゲーム音楽が流れてあれほど盛り上がったのは、それが「五輪で」流れたからです。これは例えばアニソン歌手が紅白に出たり、あるいはグラミー賞を取るなんかした時の喜びと誇らしさと同類のもので、そこにある本質は権威です。五輪(に限らず、大々的なイベント)の最も重要な本質的機能は権威であり、五輪以上の世界的権威はそうそうありませんから、これに喜ぶのは全く自然な感情です。ただ、五輪の権威を利用して楽しんでいる、五輪でなければここまで喜ばなかったという認識は(少なくとも反対傾向を持つ人は)あってよいと思います。

まとめると、反対してても楽しんでいいけれど、きちんと自分を総括しないと問題意識の低さを露呈してしまうケースがあり、そうなると受け売りのポジションでマウントの取り合いしてるだけなのがバレてしまうので、バレないようにきちんと調整しましょうということですね。楽しむことは問題意識がなくてもできますが、批判的姿勢というのは問題意識が基盤ですから。

さて一方で、ゲーム音楽を使用されたことに対して怒る向きもありました。端的に言えば、「オタクを日頃蔑視しておきながら・五輪でオタク業界に犠牲を強いておきながら、都合のいい時だけオタク文化を利用し擦り寄るのか」というような感じです。漫画表現についても同様の意見がありました。ただ、これは私は完全に間違っていると思います。

なぜなら、そもそも一般的に漫画やゲーム、あと一部アニメはオタク文化ではないからです。平成以降、ゲームやアニメは「子供のもの」でした。平成以降としたのは私が物心ついたのがそこからだからですが……ドラクエやポケモンが当時世間で認められていなかったかというと、全くそんなことはないわけです。「大人になったらやめるもの」という風潮ではありましたが。漫画に至ってはそのさらに以前から大人も子供も(読むジャンルこそ違えど)楽しむものでしたし、アニメも大人向けの懐かしアニメ特集番組が嫌になるほど繰り返し放送されていました。

開会式で流れた曲も、普通に一般層にウケているゲームばかりです。ややオタクっぽいのはニーア、ソウルキャリバー、ファンタシースターユニバースくらいでしょうか。その3つがオタクっぽいというのも、もはやゲームに疎めな私の印象に過ぎないのでなんとも言えませんが。ちなみに直前まで任天堂曲も複数予定されていたようです。

なので、そもそも開会式の制作側はオタクに擦り寄るも何も意識すらせず、紛れもない自分たちの文化として無邪気に押し出したのだと思います。ただまあ、辞任したり解任されたりしましたが、コーネリアスや元ラーメンズが起用されていたのは興味深いところで、そうしたことを踏まえると、単に制作側がサブカル推しなのでは、という印象も受けます。しかし開会式の内幕に関する記事等を見ると、AKIRA、Perfume、ゲームなどがMIKIKO案で、その後電通が(佐々木離脱後に)元ラーメンズ小林を引っ張ってきてコーネリアス起用という流れのようなので、サブカル推しの気があるとはいえ、MIKIKO案と小林・コーネリアスで別の文脈なんでしょう。

ついでに言うと、ゲームが「子供のオモチャ」であり大人のメインカルチャーでないために文化として軽んじられていたというのは事実ですが、ゲーム音楽については早いうちから一般に受け入れられていました。90年代には既にファミリー向けとはいえコンサートも行われていましたし、00年代にはテレビのBGMでも普通に使用されていました(私に90年代のテレビ番組BGMの記憶が全くないだけですが)。この扱いで「ゲーム音楽は軽んじられ日の目を見ていなかった」というふうな言い方をするのは非常に贅沢な話です(別に贅沢が悪い訳ではありませんが)。強いて言えば、「ゲーム音楽」という括りで注目されるのには時間がかかったかもしれません。だいたい00年代後半くらいな気がします。

オタクは「オタクの扱い」という点については良くも悪くも話を盛る傾向が強く、個人的な辛い体験をオタク文化に投影している人もそこそこいるので注意が必要です。まあオタクが蔑視されていたのは事実ですが、オタク文化をドラクエとかまで広げた上でオタク文化は軽んじられていた、とまで展開してしまうと、かなり話が変わってきてしまいます。

正直そういう意味ではドラマの劇伴とかの方が軽んじられている気がします。踊る大捜査線がずっとお台場で使われてるくらいかと思います。まあ、あとそもそも日本ではボーカルがない音楽の人気がなかったということもあり、その括りの中ではむしろゲーム音楽は人気者だったような印象があります。トップは久石譲とか坂本龍一で。

なんか、この件を眺めて思ったのはそんなところかな。人のことを言える身でもないので、別に自分自身は何も言われてないのに図星をつかれた感じがして、色々考えるところがありました。

私は招致段階からの東京五輪反対派ですしスポーツ観戦が好きなわけでもないし今回も一切見ていない(テレビ見れない)くらいなので、残念ながら全く五輪に対して矛盾した気持ちを抱えてはいません。ゲーム音楽が採用されたのも恥としか思っていません。運動会でカービィのグルメレースが流れるのすら気恥ずかしいたちなので(流された記憶はないですけど)。

ですが、五輪を楽しむこと自体はまったく責められるべきことではないと思います。楽しいお祭りなんだから仕方ないです。それが五輪の本質的な問題の一つでもあります。どんなに傍若無人な振る舞いをしても、始まればかなりの部分許されてしまう。反対を気取るなら、反対の自分さえ思わず楽しんでしまったという事実からその問題点を掘り下げることもできるでしょう。

結局批判されるのはその振る舞い方ですよね。あえて正論という言葉を使いますが、いくら論理的に正しい正論を振るっても、その人の立場や文脈、タイミングでいくらでもケチがついて正しくなくなります。所詮はツールなので。本当に見られているのは(見るべきなのは)何のためにそれを言っているのかですし、また、そういう目は自分自身にも向けるものです。

オタクの自意識については、まあ今回くらいなら全然問題ないんですが(実際オタクを意識した演出の可能性は大いにあるし)、たまに加害に至るまでエスカレートするので、強く発露してるのを見るたびヒヤヒヤします。