最近この件に絡んだ話を話しているので、発端のこの事件についても取り留めのない文章だけれど書いてみる。

まず初報の段階で思ったのは、もう「安倍ちゃん死なないでくれ〜」という気持ち。これは別に安倍氏が好きだからとか尊敬してるからとかでは全くなくて、個人的には安倍氏のことは一貫して批判的な目線で見ていたのだけど、単純に暴力やそれに近い理不尽な事故病気等で人が死なないで欲しいというのが一点。なんだかんだ言って長期政権のトップで、ある程度の親近感もあるというのが一点(危険な親近感だけれども)。そして最後に、暴力によって安倍氏が亡くなることで起こる影響を想定して、どうも自分にとって望ましくない方向に行きそうだと思った。
それはつまり、安倍氏がある種の殉教者として聖人化・偶像化され、今後の日本の政治において、安倍氏の政治信条に沿った政策主張に利用されていくのではないかという懸念である。安倍氏のこれまでの主張実績に対して否定的な自分としては、それは望ましくなかった。
結局のところ、残念ながら安倍氏は亡くなってしまった。

そして当初は容疑者の人物像や動機が全く不明だったため、次のような不安もあった。容疑者は反安倍的な政治信条や社会への不満を動機としたテロリズムとして犯行に至ったのではないか?
それは「反安倍的」なる自分にとっては非常に都合が悪い話である。「反安倍的な勢力はテロリズムに頼るような勢力だ」とレッテルを貼られてしまえば、ただでさえ独裁的な政治がさらに進行してしまうし、前述のような安倍的政策主張に利用されるのは目に見えている。
また、日本国内において政治的手段として本格的にテロリズムが選択肢とされるフェーズに突入したと考えると、本邦の民主主義に与える影響は大きい。
これらについて、前者については逆に反安倍攻撃材料として期待した人もいるだろうが、少なくとも後者の懸念については政治に関心のある人なら誰もが抱いただろう。
だからこそ当初はこれを民主主義への冒涜・挑戦的なテロリズムと解釈した人がほとんどだったし、現在でもまだその解釈を使用する人はいる。なぜ安倍氏の国葬をするのかについての岸田首相の回答でも使用されていた。

ただ、テロリズムと解釈されたために、当初は容疑者のいかなる主張も報道すべきでない、無視すべきである、政治に反映させてはならないという論調がネットでは多く流れた。これはテロリズムへの対応としては一理あるし、あるいは反・反安倍的な人からすれば(仮に犯人の主張が反安倍であれば)「テロリストの逆(自分たち)が正しい」という詭弁を使用可能にもなるので、そういう意図を持って発信した方もいるとは思う。
しかしやはり現実的にそういった対応は無理があるというか、既に起こってしまった近年の日本史上稀に見る歴史的事件に対し、犯人がどんな人間か世間が興味を持たずにいるのは無理があるので当然報道はされるし、なぜこのような事件が起こったのかは検証・研究されるのが当然であろうとは思う。

結局そのとおり、それから少し経って容疑者の供述や人となりが報道されてくると、どうやら動機は統一教会への恨みらしい(むしろ安倍氏への個人的恨みや反安倍説は本人から否定された)ということがわかってきて、テロリズム的な解釈が薄れてきた。
安倍氏(を始めとした政治家、特に自民党)と統一教会の関わりは、多少政治に関心のある人間であれば大なり小なり周知の事実ではあったため、この動機については自分自身驚きはなかった。
ただ、どうやら世間一般的にはそうでなかったために、容疑者の動機は当初、安倍氏が統一教会と関係がある「と思い込んだ」から犯行に及んだ、という報道のされ方・認識のされ方をしていた。
報道に関してはかなり作為的に統一教会との関わりを隠そうと試みているなと感じたが、それもこれまで政治家と宗教の関わりについて(宗教母体の政党以外は)ほとんど言及されてこなかった流れを思えば、むしろ従来通りの報道姿勢だと思った。不快ではあったけれども。
現在世間一般ではどういう認識のされ方が主流なのかはわからない。

その後、容疑者のTwitterアカウントが出てくると、容疑者がいわゆるネトウヨと呼ばれることを自認していたことや、何がきっかけで安倍氏と統一教会の関係について許容範囲を超えたのかがわかってきた。そのきっかけとなったと思われるツイートも、保守的な著名人が統一教会イベントへの安倍氏のビデオメッセージを紹介したツイートであった。
そうなってくると反安倍のターンで、さも全てが統一教会とネトウヨの中で醸成された事件であるかのような意見が増えてきた。自業自得という言葉すら出てくる。
個人的にはまず殺害された人間に自業自得という言葉は当てはまらないと思うし、容疑者がネトウヨだったかも疑問視している。容疑者の全てのツイートを見たわけではないが、そこまで政治に強い関心もなく、なんとなくインターネットでネトウヨ的言説に触れてなびき、反安倍やリベラルに反発する傾向のある、よくいる一般的なインターネット人であったように思う。安倍氏を殺害したのも、安倍氏に別段心酔してなかったからできたことではなかろうか。
そういう政治的態度の人間が生まれる環境には確かに安倍氏の存在もあったが、事件の原因とは大して関係がないだろう。やはり統一教会と容疑者の関係性に焦点が当たるのが自然だと思う。

であるが故にか、現状の報道は統一教会の悪質性とそれを容認し利用してきた政治家の問題について主に掘り下げられている。
統一教会による家庭崩壊、統一教会の反社会的性質、統一教会との政治家の癒着、政治家による統一教会の権威付け、これらが事件を産んだ要因であると言えるのではないか。そこには当然、統一教会がのさばるのを無言で肯定してきただけでなく批判の声を黙殺してきた社会の責任というものが大きくあるだろう。
統一教会だけでなく、悪質な反社会的団体全てについて、社会が見て見ぬふりをしてきたことで見捨てられてきた層の中から出てきたある種の突然変異が今回の容疑者であると言えなくもない。統一教会に対する暴力的報復を考えた被害者は数多いと思われる。

こうして統一教会と政治の問題に注目が集まる流れは望ましいことではあるが、ここまで社会的・政治的な影響が大きいと、やはりこれはテロリズムであり、この流れは容疑者の目的を成功させているのでは、という思いが首をもたげてくる。
だからと言って容疑者の逆を行こう、統一教会を容認しよう、というのは言語道断の愚かな主張である。
この事件をどう見るかは難しいところだ。

結局のところ、これは日本社会の敗北なのだろう。少なくとも、今回の犯行を生んだ下地は長年かけて日本社会が醸成してきたものである。長年統一教会を批判し続けてきた有田芳生氏は先日モーニングショーで、オウムの次は統一教会を摘発すると言われたが政治の圧力で潰されたと発言した。そのような政治を選んだのは誰なのか。誰のせいとも言いがたい居心地の悪さが付きまとう。
おそらく、止められるチャンスは過去何十年の間に無数にあったのだろうと思う。それを全て見過ごした結果、安倍氏を殺害されるという結末に至らせたのではないか。

そんな感じでとりあえずこの文章は終わり。