年が明けましたね。諸事情によりお祝いの言葉は割愛します。今年もよろしくお願いします。

2021年は私にとってはなかなか精神的に苦しい年でした。主に一昨年についた仕事のストレスですね。ひいては仕事のためにやりたいことができないという不満もどんどん高まっていきました。まあ無職になってヒマになったらやりたいことをやるのかと言うとそうでもないんですが……。

仕事については、一昨年の年末進行からどかどかと業務スケジュールが崩壊し始め(というか私が崩壊させたんですが)、その流れのまま年度始めもぐちゃぐちゃになり、そのぐちゃぐちゃの後始末が今に至るまで尾を引いているといった感じです。それまでは新人チュートリアルステージみたいなところだったんですが、履いていた下駄が少し低くなっただけでハチャメチャになりました。

めちゃくちゃコンプライアンスを重視する職場なので私もしばしばコンプライアンス研修やら討議やらに参加するんですが、コンプライアンスリスクについて考える度に、私の存在が最大のコンプライアンスリスクだよなあと再確認する有様です。自分のメンタルのみならず職場のためにも辞めた方がいいという気持ちが積み重なる日々でした。

新年早々暗い振り返りになってしまっていますが、悪いことばかりでもありません。11月には一時的に別部署に派遣されました。これのせいで9月と11月のコミティア欠席及びサークル不参加を決めたわけですが、こちらの部署での仕事が極めてストレスフリーでした。厳密には業務中のストレスはけっこうかかっていたんですが、職場を離れれば不安に思うことが何もない状態です。非常に晴れやかな時期でした。この時まで自分は労働自体が向いていないのではと思っていましたが、シンプルに業務内容の向き不向きであることがわかり、それ自体はかなりの収穫でした。ポンコツには変わりませんが、どこに行ってもストレスで満足に働けないというわけではなさそうです。

まあ来年度いっぱい元の(合わない)業務をやり続ける予定ですしなんなら辞めない限りずっとそうなる可能性の方が高いんですが……。辞めたいなあ。来年度は私の負担が劇的に増えるはずなので(これは誰にもどうしようもできない)、どこかで潰れてデカい不祥事になったら嫌だなあという気持ち。そんなわけで、遠~くに明かりはあるものの、2022年は私にとって暗い一年になる見込みです。

ではそんな暗い一年をどうやり過ごそうかというところですが、いつもながら「死なない」「逃げる」といったところですね。前向きな言葉はなし。でもこの2語があれば、社会保障のある国なら、なんとか生きていけます。たぶん。

ちょっと話が戻りますが、仕事のためにやりたいことができないというのは、別に忙しくて時間がないとかいう話ではないです。うちの職場は労務が厳しく無駄に超勤できないので、時間はまあ(サラリーマンとしては)そこそこあります。問題は精神的な余裕がない(職場外に仕事の不安を持ち帰ってしまう)ことで、精神的な余裕がないと時間があってもできることが非常に限られてきます。まして私は鬱持ちなので、そうすると脳死でできるようなことしかできないんですよね。不安を持ち帰ると言っても自宅で仕事のことを考えてるわけではなく、常に頭の片隅に不安がいて脳活動にリミッターが挟まっている。Elephant in the roomではないですが、象がいる部屋は象を無視しても物理的に空間が狭くなるのでそういう感じ。

まあ、時間も足りないんですけど。やっぱ労働向いてなくね?

自分個人のことから離れて社会について考えると、2021年はまた一段と人々の不寛容化が進んだなというのが印象としてあります。具体的に何があったとかではない(あるかもだけどパッと出てこない)ので印象でしかないですが。不寛容という姿勢は基本的に無知と不安から出でるものなので、(個人的不安の集合としての)社会不安が増大したというところでしょう。

よく見かけるのは相手に自分を投影して拒絶・攻撃する構図ですね。自分が相手をそういうやつだと思うのは、自分自身がそういう一面を持つということであり、そもそも世界を観て判断する時に人間は自分のレンズしか持ち得ないので、他者は自分自身の鏡になり得ます。特に自分の中の抑圧した欲求や感情、自分自身の受け入れがたい欠点等を相手に持たせるときは防衛機制としての投影ということになるかと思います。

今検索して出てきた例になりますが、投影では「私は彼を嫌っている」が「彼に私は嫌われている」という認識にすり替わったりします。この順序で書くと直観的に受け入れがたいですが、要するに自分の気持ちのありかを自分の外側にまず先に見出すということです。順序を入れ替えて、まず「彼に私は嫌われている」と思っていたけれども、実は自分が彼を嫌っていただけだった(彼は自分について何とも思っていなかった)、と書くと誰しも体験的に覚えがあるんじゃないでしょうか。人間関係以外にも、不安な夜道を歩いている時に何でもないものが幽霊か何かに見えてしまう、ということもあります。人間、自分の心よりも自分の外の世界を見つめる時間の方が本来圧倒的に多いわけで、なおかつ外の世界は自分の心越しに見える(心のありようによって歪む)ものなので、自分の気持ちを自覚する前に外的世界の出来事として認識してしまうというのはありふれた話なんじゃないかと思います。もちろん、投影についての以上の説明は私の勝手な理解なので間違っている可能性は高いですが。

あとこれは投影とは違うかもしれませんが、嫌いな相手(集団?概念?)を攻撃する際に藁人形論法を使う場合、その藁人形って自分自身の考え方や人間性がめっちゃ出るんですよね。お人形遊びと考えればわかると思いますけど、要するになりきりなので根本的な部分に自分自身がめちゃくちゃ反映されてしまう。自分自身の醜い部分を藁人形にして、それに釘を打つ(ついでにそれを見せびらかす)ことでなにか鬱憤を晴らしているというような構図があります。インターネット上だと藁人形を使っての内輪ネタ化(による嘲笑と揶揄)という形で不寛容を表出させることも多く、そのためめちゃくちゃこの構図をよく見ます。

そういう風に考えると、おおもとの原因が自分以外(例えばコロナとか)にあったとしても、結局誰もが世界に投影された自分自身と戦っているんだなというところはあります。私も仕事ができないできないと思っていますが、実は意外と仕事はできていて、私が不安や仕事辞めたさを仕事の進捗に投影しているだけなのかもしれません。いやでもやっぱできてないわ。ダメダメだわ。普通に部署内で苦情散々出てるし。

話が迷子になりましたが、今年はもっと不安が少なく人と仲良くできる年になるとよいですね。私はマジで仕事が無理になったら逃げます。