破戒(2022)を観た。
見終わったあとのエンドロールで、全国水平社設立100周年記念で製作されたんだということを知った。なるほどそういう理由で今映画化したというわけだ。
もう本当に全く自分の守備範囲外の映画だったのだけど、諸事情で見ることになり、なおかつ時間がシビアで結局遅刻してしまい冒頭を見逃してしまった。とはいえ大事なところは見逃さなかったと思う(後述)。

何回も映像化されている島崎藤村の小説であり、明治に刊行ということで、青空文庫でも既に読める。なのでネタバレとかは気にせずに書いていく。

良質な邦画だったと思う。
明治は近代とはいえ実際はもうほとんど時代劇みたいな世界観で、だからそういうのを撮りやすい東映が手がけたんだろう。
明治後期の時代背景に基づいた美しいシーンが多く、なおなつ意図を持った美意識、言い換えれば計算された絵作りが感じられた。邦画は視覚的に安っぽいシーンが混じりがちなんだけれど、本作ではそういうのはなかったと思う。
加えて役者の演技も抑制が効いていてよかった。激昂するような場面もあるのだけれど、感情表現が自然で、終始舞台演劇的な演技ではない。

余白の多いタイプの邦画で、それらは見る人それぞれに解釈可能だと思うのだけど、自分には一貫してある種の緊張感・不安感を与えるものだった。なので見終わって最初に思ったのは「ストレスの溜まる映画だった」という、ネガティブっぽい感想だった。
もちろんネガティブな意味合いではなく、要するに、社会に抑圧され秘密を抱えた丑松というキャラクターの抱えるストレスが、全編に満ちているように感じたということだ。なので余白のシーンでは剥き出しのストレスに直面する。丑松と志保の間に花びらが舞うシーンなどは、人によっては恋のときめきを感じるスペースだろうけれども、自分にとっては丑松の苦悩の増悪を連想してしまうスペースだった。

つまりはそれくらいに丑松役の間宮祥太朗が良い演技をしていた。ポーカーフェイスに近い表情や仕草の微細な変化で、丑松の人間性や苦悩を十分に表現出来ている。常に秘密を心の片隅に置くが故に、無闇に感情を露わにせず、他人と心理的距離をとりがちなのだろう。それが同僚の銀之助には複雑ながらも心を開いている様子や、生徒に向ける真摯な姿勢、猪子に対する興奮などをそのまま演じ分けている。
そこが上手くいっているから、数少ない感情を露わにするシーンに真実味と迫力が出る。突然意味もなく感情的に大声を上げた、みたいな印象にならない。
邦画やドラマをあまり見ないので彼のことは本作で初めて見たのだけれど、これほどの演技ができるならさぞ活躍している役者なんだろうと思う。ルックスも好みのイケメンだ。
もっとも、七瀬公演じる勝野もキャラはまるで違えど演技の方向性が似ているように感じたので、監督等の演技指導による色もあるのかもしれない。

もう一点良かったところを付け加えると、本作独自の改変点として、猪子に差別の普遍性に言及させたところが現代の映画化として意義のある点だったと言える。これは勝野が寺では女性の社会参加を都会の潮流として褒めそやしながらも、他方では部落(新平民)差別を公然と疑いなく行う人間であったというところにも繋がる。
部落差別は終わっても別の差別が増えるかもしれないし、よしんば部落差別が終わったように見えても形を変えて続くかもしれないというある種現代的な視点に言及させるのは、作中で猪子が先見性のある人物として描写されているのにも合っている。こういう時代劇で現代的な観点をキャラに持たせると露骨に世界観や話の流れを損ねる問題を、猪子の語り口も含めてクリアーしている。

強いて言うなら、町に噂が広まっているというのであれば、ワンシーン、「小学校の教師に穢多がいるんですってよ」「まあ」みたいな噂の広がりを直に示すカットが欲しかった。多分原作ではあるんだろうと思われるが、本作では丑松が公然と疑われているというのが、教員室で猪子を侮辱され詰められるまではっきりわからない。

また、原作と異なり生徒が今の小学生程度の年齢になっている。原作であれば生徒は十五になる頃の年頃であり、どういう意図で変更が加えられたのかわからないが、個人的にはあまり良くなかったと思う。
子供の無垢さ(という大人の幻想)は作劇上けっこうな劇薬である。括弧内が透けて見えてしまい、あたかも「言わせている」ように見えてしまう。そうならないためにはよほど脚本が気を使い、かつ演技力の高い子役でなければならない。
最後に見送りで手押し車を一緒に押していくシーンなどはあまりにも「大人がやらせている」という感じが強かった。
原作どおりの子供たちであった方が途中のドラマも情感が増しただろうし、丑松の告白を受けたあとのそれぞれの反応も多様化して、「やらされている」という感じが軽減したと思う。
ただ告白シーンでは小学生程度の生徒たちであることが、独特の感慨を生んでいたのも確かではある。丑松が子供たちに向けてきた目線に沿えば、この子供たちのほとんどにはきっと丑松の言葉が届くに違いないという安心感があった。
しかしそれも、無垢な子供たちが良い子である(あってほしい)という大人の幻想の押しつけがもたらすものに過ぎないのかもしれない。
ちなみに告白シーンを原作の土下座から改変したのは良いと思った。謝罪よりも崩壊が前に出るのが相応しい。

もう一つ、丑松の同僚である銀之助について。おそらく本作中の彼は丑松の告白をきっかけに部落差別を脱した人間として描かれているのだけれど、自分は銀之助は依然として部落差別者であろうと思う。ただ目の前の友人個人を優先する良識があるというだけである。
こうしたタイプは実際多く、ここをきちんと描ききれていればなお良かったと思うのだけど、インタビュー等を見る限り、スタッフは上記の通り銀之助を脱差別者のつもりで描いているようなので、そこは残念だった。

滅多に邦画を見ない身の言うこと(直近がシン・ウルトラマンと大怪獣のあとしまつ、あと100日間生きたワニも邦画枠にしとこう)で申し訳ないのだけど、近年見た邦画の中では突出した出来だったと思う。
被差別意識に基づく緊張感に満ちているという意味ではゲット・アウトに通ずるものもある。自分が被差別当事者でないのにその緊張感を疑似体験させてくれる映画というのは、一度見ておいて損はない。