プリキュアについての文章は前に書いたやつが下書きに残っているので、それと順番が前後してしまうけれども、こっちの方が簡単なのでさくっと書いてアップする。

脱ピンク 異色のプリキュアが投げかけるメッセージ:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASP7X41HSP7VDIFI008.html

こういう記事を見かけた。残念ながら朝日新聞の有料会員は先日抜けたので全文は読まずにタイトルと冒頭だけ見て。

これピンクじゃね?

いや、プロデューサーいわく白だそうだし、まあそれなら白なんだろう。ただ脱ピンクかと言われると、十分にピンクが入っているように思う。

私が大好きなスイートプリキュア!は当初Wピンクという触れ込みがどこかで使われていた。キュアリズムもピンク扱いだったのだ(結局無理があるのでみんな白として扱っている)。率直に言って、キュアサマーはキュアリズムよりはピンクが多いのではないかと思うが、衣装にブルーが入っているおかげでレインボー的な配色としてバランスが取れている格好だと思う。

ただ、朝日新聞の記事ではジェンダーのステレオタイプとしてピンクが取り上げられている。私にはその意味で十分に脱ピンクなデザインのようには見えない。襟元の大半を占めるピンクは明らかにステレオタイプに引っ張られているように思える。

そしてこれはプリキュア5の時からずっと言われていることなのだけど、女児人気は紫のほうがあるという見方がある。ピンクに並ぶかそれ以上にステレオタイプなジェンダーカラーと言えるかもしれない。こうして見るとトロピカル〜ジュ!プリキュアにはキュアコーラルがいる。私はまだトロプリを見たことがないので知らないが、どうもかなりフェミニンなキャラに見える。

ついでに、キュアラメールは変身前の髪色がまっピンクだし、変身後もかなりピンクが目立っている。追加プリキュアのように見えるが(一応今後見たいとは思っているのであまり調べたくない)、私が見ていた頃の追加プリキュアは女児ウケするタイプのキャラが多い(紫や大人系)印象だったため、そこを意識したのだろうか。

何にせよ、記事中で述べられている「ピンクのキャラクターがいない」というのは、少なくともキュアラメールが登場した現時点では事実に反するように思われる。記事中でも人魚のローラに言及がある。

私はジェンダーのステレオタイプとしてのピンクが必ずしも悪いとは思っていないが(好きなプリキュアにはピンクキュアも多い)、ジェンダーフリーな取り組みというのも好ましいと思っているので、本当に「脱ピンク」したのかと思って記事を読んだらずっこけたといったところだ。私から見ると、外見上は依然としてジェンダーに強く縛られた作品だと思う(それが悪いとは言わないが)。

まあ、とはいえ脱ピンクと言われれば脱ピンクではある、といった微妙なラインなので、あまりそこを突っ込むのもどうかとは思う。

それは置いておいて、じゃあ異色なプリキュアかと言うと、キャラクター的なところは分からないが、見た目の上ではそんなことはない。というか、初代のキュアブラックが圧倒的に異色すぎて、それ以後の主役プリキュアたちは全て同系統に見えるレベルであり、キュアサマーも例外ではない。あとはまあ、フォームチェンジではあるが、キュアブライトも後半ずっと普段使いするしあまりに黄色なので異色といえば異色か。そもそもふたりは時代の2作(3作)と5以降は切り分けた方がいい気もするけれど。そのレベルで異色なのだ。

ただまあこれも、そもそも記者が昔のプリキュアを考慮していないという可能性もあるので(初代は最近映画に出ていたらしいが)、あまりそこを突っ込んでもしょうがないように思われる。

シリーズの初期を知っている人ならわかると思うのだけど、プリキュアとはもともとジェンダー的ステレオタイプへの反発から着想した「女子だって殴り合う」肉弾ものアニメだったし、ヒーローものにありがちな「世界を救う・人を助ける使命」への反発も含まれていた。初代のEDテーマである「ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!」においてよく表されているように、誰かから押し付けられたヒーローとしての運命と等身大の一般女子としてのエゴが葛藤する(というかおおむねエゴが勝る)作品だった。

ただし、彼女たちはある程度以上に「良い子」なので、エゴを突き詰めても結局誰かを助けるというところに着地するわけだけど。なぜなら彼女達の一般人としてのエゴは日常に依存するものであって、日常を破壊しにかかるものと戦うこととは必ずしも矛盾しないからだ。とはいえ基本的には作品を通じて、使命感よりもエゴで動いていることが強調される。

こうした見方の上では、プリキュアは反発とエゴのヒーローとして誕生したと言うこともできるだろう。

しかしそれは早い段階で薄れていき、戦う理由として使命感が強調されるようになっていった。ごく初期こそ使命とエゴの葛藤を主軸におけたが、シリーズを長く続けるにあたってそればかりをやってもいられなかったのかもしれない。引き続き等身大のエゴこそ描かれ続けたものの、使命は使命として切り分けられ始めた。エゴによって戦うというより「プリキュアだから」戦うという職業プリキュア的な要素が強まっていった。

これが最初に顕著に表れたのがフレッシュプリキュア!だったと思うが、早くも次作のハートキャッチ!プリキュアではエゴが否定される結末を迎えた。プリキュア(というかキュアムーンライト)はたとえ悲惨な運命の犠牲となっても自らのエゴを否定しなければ、憎しみの化身たるラスボスには勝てなかった。正直この作品はさすがに異質すぎて色んな意味でシリーズの例外として扱いたいけれども、プリキュアの使命・職業プリキュアという面が極めて強調された作品であることは確かだ。(余談なのだけど、ハトプリのラスボスは今度映画化されるデューン砂の惑星が元ネタだったのかと今はたと気づいた)

その次作のスイプリでは再びエゴが強調され、ラスボスの結末もプリキュアたちがプリキュアとして望まれた結末を拒むという私的なエゴによってもたらされるものではあるのだけれど、彼女達が戦う理由は「プリキュアだから」という使命感が引き続き残り、この流れはそのまま後の作品に引き継がれたものと思われる。

そして外見についても、プリキュア5以降ピンクが主役プリキュアの定番となった(一作前のキュアブルームもピンクだったのだけど、前述したようにシリーズ後半は真っ黄色のキュアブライトとしての活躍がメインだった)。そこから10年以上経たことを考えると、キュアサマーを脱ピンクと評するのもまああながち間違いとは言い切れない。

何が言いたいのかと言うと、反発とエゴの象徴として生まれたプリキュアは時が経つにつれてその色を薄めていき、むしろかつて反発していた対象に近づいていったのではないか。冒頭の記事から伺えるのは、今ではプリキュアが「従順さ」「女の子らしさ」を振るう立場にあると認識されているということだ。それは女児向けアニメとして人気を博しシリーズ化した時点で既定路線だったのかもしれない。

しかし始まりはそうではなかったし、私が見ていたのはハピネスチャージプリキュア!までだが、反発とエゴの基本要素は失われたわけではなかったと思う。その一作前のドキドキ!プリキュアでは博愛のプリキュア・敵はジコチューということで、エゴの問題に逆側から直接突っ込んできた。プリキュアで愛は当然頻発ワードであり、恋愛でなく博愛となるとかなり「従順さ」側の言葉にも思え、事実プリキュアと博愛は噛み合わせが悪かった(前述したようにハトプリは博愛のためにエゴが否定された)。ドキプリはかなりギリギリではあるが博愛とエゴを統合してみせた点で、プリキュアとして一つの到達点ではあっただろう。

そうした流れを踏まえると、おそらく今でもプリキュアは反発とエゴのヒーローではあるのだと思う。ただ、社会が女児向けアニメに求める「女の子らしさ」のステレオタイプは商業的に受け入れる他なかったのかもしれない。女児がピンク好きだから…という理由だとしても、それを掘り下げていくと、女児にピンクを始め「女の子らしさ」を当てがって好きになるように仕向ける社会的・文化的な構造がある。

こうした文化的な面については、別コンテンツになるが、ディズニープリンセスの扱いが本国と日本でかなり違うということも同様のことを示唆している。詳細は省くが、端的に言えば日本は本国と比べてステレオタイプな女性らしさと白人の人気が強い。

マーケティングが先か文化が先かは知らないが、日本の女児向けコンテンツではジェンダーステレオタイプの方が商業的にウケるようになっていると考えられる。ここではその事の問題点を考えようというわけではないし(別に女児向けに詳しいわけでもない)、ステレオタイプもまあ好きは好きなのだけど、そのような日本の商業的構造にプリキュアもある程度飲まれていった結果、プリキュア自体もステレオタイプと看做されうる状態になっているのかもしれない。

ステレオタイプへの反発をコンセプトとして誕生したプリキュアのファンとしては、なかなか複雑な感じではある。あまりお行儀の良いプリキュアにはなってほしくないが、その方がウケるのであれば、寂しくはあるけれど止めることもできない。

なんか長くなったので簡単にまとめると、ジェンダー的な観点でプリキュアが脱ピンク素晴らしいとか言われてるのを見かけたので、初代が黒のプリキュアに今頃何言ってるんだ15年以上遅いんちゃうかと思ったけれど、ひょっとしてプリキュアは作品の内容に関わらず女の子らしさ(のステレオタイプ)の象徴と認識されているのかと思い至り、そうだとしたらちょっとカナシイナー……と思ったという話でした。