今日は誕生日。
このくらいの歳になると、誕生日は色々と複雑な気持ちになる日だ。歳をこれ以上とってしまうことへの焦りや、この歳まで生きてこれたことへの安堵など。
子供の頃は、23歳くらいまで大学浪人して23歳〜27歳くらいで全て諦めて自死するものだと思っていた。社会不適合のケがある自分が社会に出るというイメージが持てなかったし、大学にも行けないというのは実際のところ可能性の高い未来だった。その将来像が変わって希望が見えたのは、一浪して志望大学に奇跡的に受かってからだ。
それから時が経って、会社にも勤めて、今再び自死の危機が訪れていた。過去形なのは一旦乗り切ったからだが、また半年以内の近いうちにその精神的危機がやってくるだろう。今は多くの人や会社や自治体の制度の助けによって辛うじて生き長らえているに過ぎない。最悪生活保護とかそういう手もあるのだとは思うが、その環境で自分の精神が耐えられるか自信はない。生活の安定こそが最低限の精神的基盤だ。
この歳になると、残りの人生があといくらかに思いを馳せるようになる。今日は誕生日という節目である。改めてそれを考えるのにはもってこいな日だろう。誰にあと何度会えるのか、生涯でいくら稼げるのか。人生の伴侶には出会えるのか。自分の場合はそれに加えて、どれだけものを描けるのか。
そろそろ本格的に焦るべき歳だろうと思う。できる事はできるだけやっておきたい。残りの人生はことによってはもっと遥かに短いかもしれないのだから。
とりあえず液タブ買おっかな……。
自己肯定感を上げるというのは昔から良いこととされている。メンタルを持ち崩した人にもそれが勧められがちだ。自分も子供の頃、自己肯定感を上げなければと、そう思っていた時期があった。自己嫌悪にひたすらとらわれていた時期だ。
しかし、それから間もなく、自己肯定感を上げるというより、自己否定感を下げる方が優先されるべきなのではないかと思うようになっていたし、今もそう思っている。
そのきっかけは、子供の頃に聞いたTOMOVSKYの「ワルクナイヨワクナイ」だった。この歌は要するに自分の弱みや欠点にひたすら蓋をして自己弁護をする、そしてそれを肯定する内容なのだけど、これを聞いた時歌のかっこよさとともに、こんなことを歌う人が、こんなことを考える人がいるのかと衝撃を受けたのだ。世間には通りいっぺんのポジティブとネガティブの二極しかないと考えていた自分にとっては、蒙が啓かれる気分だった。
TOMOVSKYには他にも「うしろむきでOK」やネガチョフポジコフなど、そういったテーマの曲がある。
これはこれで肯定しているから自己肯定に変わりないのでは、という見方もできるが、ポジティブな結果を肯定するのとネガティブな結果を肯定するのでは意味が違うと思う。一般的に自己肯定感として言われているのは前者であって(ネガティブなことも考え方でポジティブな結果にとらえ直すなどが必要)、自分が言いたい自己否定感の低下は後者だ。それは一歩間違えれば、というか批判的に見る人によっては甘えということになるのかもしれないが、そこが問題なのだと思う。自己嫌悪というのは、自分を批判的に見る人を内在化させてしまった結果であることが多いと思うのだ。
つまりはあまり自己批判しないようにしよう、というのが、自己否定感の低下ということだと思う。自己批判には利点もあるが、欠点の方が圧倒的に多いと思う。
自己否定感は物事に取りかかる時に必ず萎縮させる効果があると思うし、取り組んでいる時にも途中で嫌になって諦めさせる効果があると思う。