ワニを見た。もちろん今絶賛公開中の映画「100日間生きたワニ」のことだ。なのでネタバレ感想を書こうと思う。とりあえず以下にネタバレでない説明を長々書いてクッションにしておくので、ネタバレが嫌な人は辿り着く前にブラウザバックして欲しい。まとめの結論(ネタバレあり)は末尾にまとめておくので、せっかちな人は末尾へ。

原作はTwitter上で連載されていた「100日後に死ぬワニ」という四コマ漫画。タイトルで主人公のワニが死ぬ結末を明かしつつ、毎日ワニの日常を描く四コマを一日ずつ載せていく手法で話題をさらった。一日一日死のカウントダウンを刻むリアルタイム性はTwitterと相性が良かった。

待ち受ける死を知らずに無邪気に死や今後の予定について言及するキャラたち。未来に向けて何かをなしとげ、人と繋がり、あるいは何もせずに一日を無駄にする。日付まで決まった死の運命の前では、そうしたありふれた日常は物悲しく滑稽なものに映り、それが読者の心を意地悪くくすぐる。そして何十日も眺めてくると、毎日更新されるワニの日常が自分の日常に侵食してくる。いつしか、ワニは本当に死ぬのか?本当に死んでしまうのか?という疑問が頭の片隅にわいてくる。ワニは健康上の問題もなく、直前まで死ぬ素振りなど一切見せない。死ぬとしたらどんな風に死んでしまうんだろう?そうして徐々に乱されていく情緒を尻目に、100日目が無慈悲に迫ってくる……。

感覚的には、「ちいかわ」等のナガノ作品で理不尽な脅威が出現した時の情緒の乱され方に近い。ちいかわが世を席巻している理由にはキャラクターの可愛さと共に、ナガノ作品特有の不穏な展開もあるだろう。かわいいキャラクター達が理不尽な不幸な目にあうのを心のどこかで楽しみにして読む読者は多い。情緒を乱された読者はその感情を共有したくなり、掲示板・SNS上で話題にする。ワニもこうした構造をもって広く受容されていった。

それが一転、現在では不評の嵐。詳細は省くが、端的に言えばしょうもないミスでコンテンツとしての信用を完全に失い炎上したのだ(これは制作側が悪い)。

その結果、ネット上では「とりあえずワニをバカにすれば賢ぶれる」という、よくある忌むべき風潮が蔓延した。一旦こうなってしまうとネット上ではもうまともにそのコンテンツについて語れない。それどころかデマや誹謗中傷が飛び交い、それ以上の犯罪行為にエスカレートすることもよくある。おおむねこのような炎上というのは、まとめサイトなどで知っただけの外野がメインになって広がるものだが、そのうち実際にコンテンツを楽しんでいた人も楽しんでいた「バカだった自分」の過去を否定し始める。そもそも好意的な態度を取れば、バカにされたり謂れのない疑いをかけられたりする。そうしていよいよ、コンテンツに好意的な人が表立ってはいなくなってしまい、罵倒一辺倒になる。

このワニの映画も、上映前からひとしきりバカにされまくっていた。いざ上映されると、客入りの悪さを嘲笑うあまりに、映画館の客席予約画面で大量に座席を確保し文字を作るという悪ふざけも行われた。このような風潮の中、この映画の内容についても「上映前から」さんざん不評が話題になり、その感想が事実か否かもよくわからない(なぜなら見もせずに嘘八百で叩いても「ネット上では許される」コンテンツだから)という状況になってしまった。

まあ、こうしたバズにおける主体としての「ネット」というのは、実際には少数の内輪ノリに過ぎないのだけど、話がズレるので別の機会にする。

で、私自身の話、わざわざ映画を見に行ったということはファンなのか、と言われると全くそんなことはない。ワニが死ぬ少し前にようやく読んだくらいで、それまではワニ読者の反応越しに「そういう漫画があるんだ」と思いながら眺めていた。終了後は炎上も含めてすぐ関心から外れたし、映画が公開したのだって昨日か一昨日くらいに知ったばかりだ。

それがなぜ映画を見に行ったのかというと、前述のとおり真偽不明の不評感想がバズっており、自分自身素直にその内容を受け入れそうになっていたからだ。関心のない話題だと、ついそのような疑わしい情報を無批判に信用してしまう。こうした炎上絡みの話題では、言及した人間はほとんど無自覚にしろ悪意でねじ曲がった事実を信じているものだ。そして、「一次ソースを確認しろ」という囁きが心の奥から聞こえてきた。それはつまり、映画を見ろということだ(映画を見ろという囁きではなかったあたり、見たいという気持ちがなかった表れだろう)。

上映時間63分というのが良かった。ギリギリ気楽に見られる短さで、心理的ハードルが低かった。

ようやく作品の感想に入るので、ネタバレが気になる人は改めてブラウザバックをお願いする(個別のネタバレ要素は極力後に回すけど)。

まず映画全体の総評を述べると、「虚無」の一言に尽きる。

もう全編通して虚無だ。もう少しわかりやすく言えば、冗長で退屈で間延びしていて、60分間何も起こらないまま終わる。厳密には当然何がしかは起こっているのだけど(それこそワニの死とか)、ひたすら淡々と進んでいく。なぜこういう印象になったのか具体的に書いていく。

最大の問題はセリフと間だ。ワニの原作を読むと、4コマ漫画としてもそんなにセリフが多い方ではない。そしてそんなに感情がこもった印象も持たない、淡々とした短めのセリフばかりだ。これは私たちが現実の日常で取り留めのない話をする時のノリを再現しているのだと思う。これを映像化するにあたってどのようなアプローチになったかというと、ほとんどそのまま再現したのだ。するとどうなったか。キャラがコミュ障ド陰キャだらけになった。

まず4コマ漫画を読む時の感覚を思い出して欲しいのだけど、1本読むのに5秒とかからないと思う。遅い人は10秒か。では、試しに検索して出てくるワニの4コマを1本、30秒くらいかけて丁寧に、しっかりとセリフ一つ一つ、焦らずに間を作って音読して欲しい。大体そのテンポがこの映画のテンポだ。別に不自然に遅いわけではない(ワンピースやドラゴンボールのアニメの尺稼ぎほどひどくはない)が、原作をそのままの感覚で映像化した結果、漫画で読むのに10秒かからない内容が30秒以上かけて描かれている。極めて内容が薄い。

そして原作の性格上、長セリフは合わないためか、一言ずつの短いセリフばかりなのだけど、これを実際にやるとめちゃくちゃコミュ障のド陰キャの会話になってしまった。カオナシ並と言うと言い過ぎかもしれないが、印象としてはそんな感じだ。お互いに話すことが思いつかないのに無理に話そうとして、話の広がらない一言を発しては妙な間が発生するあの感じが全編続く。自分の発した一言、相手の発した一言を受けてそれを飲み込む間が常に発生する。自分も陰キャとして、本筋と全く違う観点から心が痛くなってくる。別に彼らは居心地の悪さなど一切感じていないと思うけれども。

実際には原作エピソードも結構改変されており、セリフもそこそこ変わっているのだけど、原作のテイストを極めて忠実に再現したのだろう。改変の例を挙げると(うろ覚えなので間違ってたらごめん)、例えばおみくじの回(21日目)は、くじを開く順番が変わっている。原作は大吉が先だが、映画は大吉が後だ。ネズミの入院(5日目)では、原作では「すごい事故だった」と言っているが、映画ではたしかそういう発言はなかった。センパイがクリスマスにバイトしている(14日目)のを、原作ではワニの方が発見するが、映画ではセンパイがワニを発見し、ワニは気づかない。さらにそこでワニが赤子に構ったり(8日目)ヒヨコを助けたりする(3日目)のをセンパイが目撃する流れになっている。このように、原作の印象を変えないように映画化に合わせ丁寧に再構成されている。私も一年以上前とはいえ原作を読了済ではあるが、ほとんど違和感を持たなかった。

次に、そもそもこの作品は「何も起こらない日常」が肝なので、何も起こらない日常がひたすら淡々と描かれていく。センパイへの恋の行方、ネズミとの二人乗りツーリング、モグラの告白、ゲーム大会への出場、みんなでネズミの家に集まったこと、そうしたイベントも殊更に劇的な演出はされず淡々と進んでいく。どんなイベントも、死の前ではありふれた日常に過ぎない。これも原作のテイストやテーマを忠実に映像化したと言える。

当然だが、何も起こらない日常を確定した結末までただずっと見ていても何も面白くない。日常の中に観客から見ても面白いことがあるならともかく、ワニたちは6時の真似でツボる感性の持ち主であり、全く面白いシーンはない。そんなクソつまらない日常の奥に死があるから原作は面白いのだけど、それは漫画を読むテンポ……概ね10秒くらいでの話で、何十分も眺めているのはいくら死があってもいささか辛いものがある。原作にあったデスジョークじみた滑稽さも、映画では削ぎ落とされている。というか、映像にすると退屈な物悲しさしかない。

とはいえ、これらは全て原作のテイストを尊重し忠実に丁寧に映像化したためであり、制作側が何かひどい仕事をしたわけではない。むしろとてもいい仕事だと思う。ただはじめから向かう方向が間違っていたのだと思う。もしこの方向で行くのなら、せめて実写映画の方が良かった。表情の乏しい絵でなく役者の言外の演技があれば、会話の間も持たせられたんじゃないかと思う。実際実写邦画ではこのようなテンポは珍しくない。あるいは、2、3分ずつ分割したショートアニメ群にすれば尺に合った構成にできたかもしれない。

余談だが、この映画の何も起きなさを見ていて思い出したのが昔見た恋愛映画で、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」という福士蒼汰主演の映画だ。母が観たいと言うので一緒に見に行ったのだけど、これが全く乗りきれなかった。この映画はタイトル通り時間ファンタジーなのだけど、作中でそれが明示されるまで福士蒼汰視点では大したイベントもなくただただ普通に恋愛し付き合うだけなので、きわめて退屈した覚えがあった(ちなみに明らかになっても退屈だったし、母にもこの映画は不評だった)。キャラによほど入れこまないと、専用の恋愛映画と言えどただ淡々としたイベントのない恋愛を見せられても退屈なのだ。

こうした、やけに間が多く、言葉少なで、何も起きない淡々とした日常の虚無感をさらに強調したのが音楽だ。私はこの映画で一番音楽が苦痛だった。主に日常シーンで流れるBGMがあるのだけど(というかほとんど日常シーンなのだけど)、それがとにかく「何もなさ」を表現したある意味では優れたBGMで、虚無感に耐えながら見る映画においてこれほど辛いものはなかった。しかもこのBGMは頻繁に流れるので、三回ほど聞いた頃にはもう聞いただけで虚無感を感じるほど条件付けされているのに、五回六回と流れる(前半で十回以上は流れた気さえする)。別の曲でこの曲のモチーフが流用されていた気さえする。それか、私が軽く病んでいて何にでもこのメロディを当てはめてしまっていたのか。ちなみに劇場を出た瞬間からこのメロディは全く思い出せなくなったのだけど、多分精神の防衛反応だと思う。

そういやこの映画ってサントラあったなと思って今調べたら、配信リリースしていた。あっあのBGMこれっぽいな……試聴「2. 日常」ぐわああああああああああ!!!!……一応全曲試聴してみるか……「4. いつもの光景」「10. 桜の記憶」「12. すれ違い」全部同じメロディーぐわああああああああああ!!!!

ということで、Amazonとかで試聴できるので聞いてみてください。別に何の変哲もない普通の曲だから私の気持ちはわからないと思うけど……。テレレレレッ♪

ちなみに他のBGMについても、とくに素晴らしい!ということはなかった。情感を煽る曲も当然あるのだけど、映画の虚無さと合わさって非常に上滑りしており、よくある工業性感動音楽という印象しか残らなかった。誰かと思ってクレジットを見たら亀田誠治。亀田誠治にはいい印象がない(主にスピッツ絡みで)。いやまあ、サントラで聞けばいい曲かもしれないけれども、映画の中で良くはたらいていたかと言うと、力不足だったと思う。

作画についても触れておく。そもそも私がこの映画を見に行こうと思ったのは「紙芝居」「作画300枚」「なのに作画崩壊」という真偽不明の不評を見たからだった。

結論から言えば、紙芝居でも作画300枚でもなかった。普通のアニメである。紙芝居についてはともかく、作画300枚はカット300枚の間違いではないか?それでももっと多かったと思うけれども、そもそも作品のテイストから考えて、そこまで作画枚数が必要な作品ではない。作画崩壊についても、ちょっと私は見当たらなかったというか、このデザインでどのようになったら作画崩壊なのだろうか。それともキャラ作画ではなく、あまり注視しなかったが背景のことだろうか。

じゃあ作画は問題ないんだね、と言われると、まあ問題はなくもない。作画枚数をめちゃくちゃケチっているのは明らかだ。キャラの動きがカクついたりスムーズでないシーンが一見して10ヶ所弱くらい見受けられたし(63分の中でその程度だけど)、例えば初詣のシーンでは参道の一枚絵をアップで写したのに参道を歩くモブが全く動いておらず(つまり本当にただの静止一枚絵)、それらはだいぶ不自然だった。当然使い回しもある。クレジットを見たところ作画スタッフがとても少ないように見えたので、まあしかたないところかと思う。

とはいえ原作の絵柄をよく拾えているし、パッと見て作画がおかしいと気になる部分も特に見当たらなかった。あの絵柄をきちんとアニメで通用する立体として再解釈しているのはいい仕事なんじゃないかと思う。

あと、紙芝居という表現については、発言者がどういう意図で表現したのかわからないが、一部そういった表現が可能なシーンがあった。それはワニの思い出を写真で振り返るシーンである。まず冒頭、ワニが事故死したあと、ワニの所持品であったアルバムが落ちており、風で1枚ずつめくれるシーン(風でめくれたかどうかはうろ覚えなので間違っているかもしれない)。次に、中盤で改めてワニの死が描かれる際に画面いっぱいに写真が1枚ずつ映るシーン。正直これらのシーンを見た時は、紙芝居というワードが念頭にあったおかげでちょっと面白かった(まさに紙芝居だ!と思った)けれども、これを紙芝居だと殊更に言いたてて非難しようとは普通思わないだろう。ただの演出である。ちなみに、中盤でワニが死ぬ一連のシーンは全部冒頭の使い回しだ。

全体的には、原作に敬意を払って原作のテイストを尊重し忠実に丁寧に映像化した映画と言える。正直な話、スタッフはとてもいい仕事をしている。ただ、原作が映像化向きでなく、そのままのテイストで映像化したらとんでもない虚無になることを誰も気づかず指摘できなかったのだろう。

作品としての総合的な話についてはおおむね以上になる。次に物語的なところ、ストーリーやキャラについて語っていきたい(ネタバレ本番です)。

実はあまりにも急に思い立って見に行ったため、事前に予習をしていなかった。そのため、映画オリジナルの展開があることくらいしか知らなかったのだけど、通常はどれくらいの前情報を得て観に行くのかがわからないので、ネタバレに加減ができないのは許して欲しい。

ストーリーについては、大まかなところは正直見なくてもわかるレベルの内容で意外性は全くない。公式のあらすじどおり、冒頭でワニの死を描いた後、前半で原作をなぞってワニの日常を描き、後半はワニの死後カエルが引っ越してきてからの友人たちを描く。

私はあらすじを見なかったので、まずワニの死が冒頭に回されていることに驚いた。たしかにワニの死は事前に観客に示されている必要があるし、変更されたタイトル「100日間生きたワニ」だとよくわからない可能性もある。

しかし原作ではそもそも前述したように「死ぬとは書いてあるけど本当に死んじゃうの……?」という読み方が読者にあったことも事実で、冒頭で死を描写するのはそのわずかな未確定要素をオミットすることになる。ただ、その読み方はワニの日常が読者の日常にリアルタイム性で侵食してくる構造によるものなので、63分の映画では初めから不可能にも思える。それならたしかに冒頭で明示した方がいいかもしれない。

前半(ワニパート)については特に物語上語るべきところはない。再構成されているとはいえ全く違和感がないほど原作に忠実なので、ぶっちゃけ原作読者は前半すっ飛ばして後半だけ見ても成り立たないことはない。原作未読だとどういう印象になるのかはわからない。

映画オリジナルの展開になる後半(カエルパート)では、ワニが死んで100日後、梅雨の中、カエルが街に引っ越してくる。カエルはワニの友達と出会い、バイトを紹介してもらうなどして偶然ワニの友達全員(以下まとめてワニ友)と縁を持つが、ワニ友は全員疎遠になっており、カエル自身も素行が原因で疎まれてしまう。

ワニの死をきっかけに、ワニ友は疎遠になってしまっている。ワニの死を受け入れきれておらず、集まればその事実に直面せざるを得ないことがわかっているのだろう。集まっても落ち込むだけ。いない人の影が互いの間に差し込んでしまう。ネズミは家事をサボるようになり、ゲームのコントローラーは埃をかぶり、センパイはワニと約束していた映画に誘われるも、先約があるからと断ってしまう。雨の中、バスケットボールを子供に投げ返すモグラの横で、モグラの同僚?が電話先に怒声を放っている。ワニとネズミの思い出のラーメン屋は潰れた。ワニの死を境に変貌した後の日常は、梅雨が象徴するようにどこか暗く、負の感情に支配されている。

そんな暗い日常によそ者のカエルが不意に紛れ込んでくる。紛れ込んでくるというより強引に割り入ってくる。この口数少ないド陰キャだらけの街で、カエルは不釣り合いに饒舌で、不自然なくらい人付き合いに積極的だ。

カエルについてワニ友は明確な態度を示さないが、深く関わらないようにしている。作品のテイストとしてキャラクターがはっきり自己主張しないため(ド陰キャなため)わからないが、カエルがウザいというのもあれば、ワニの死後人付き合いが億劫になったのも両方あるだろう。

このカエルとの関わりを通してワニ友がワニの死を受け入れていく、という流れは簡単に予想できるが、いざ見てみるとその予想は揺らぐ。あまりにもカエルがウザすぎて、こいつとの関わりで癒されるとかウソだろ!?と思う。このカエルのウザさというのがかなり作品の評価に影響してくると思われるが、カエル単体の話は後に回そう。

カエルパートにおいても、カエルがやたらとウザいだけで非常に淡々と日常が進むけれども、ネズミがカエルの本心に触れて励ますあたりで多少劇的な演出が入ってきて、「日常」から少し足を踏み出す。ここで日常から外した意図はよく分からないが、ここがクライマックスだから演出的に盛り上げるのが当然ではあるし、ひょっとするとテーマ的な意味合いとして、それまでの日常が別の日常に変貌する瞬間を描きたかったのかもしれない。ワニパートでのそれはワニの死であって、それを境に日常が暗く変貌してしまったけれども、カエルパートではこの出来事が暗い日常から幾分明るい日常へ変貌する瞬間だということなのか。

ネズミはかつてワニと訪れた朝焼けの見える丘へカエルを連れ出す。道中のカエルとのツーリングは、ワニを励ますために二人乗りでラーメン屋まで連れ出したシーンを思い起こさせる。朝焼けに感じ入るカエルに対し、かつてワニがしたように蜜柑を分け与えて101点などと言ったり、6時の真似をしてみせたりする。ここでのカエルがどのくらい意図してワニの真似をしたのかわからないが、恐らく蜜柑は無意識だったのではないかと思う(その直後にツッコミを入れたカエルを怪訝な目で見て何かと重ね合わせていたから……おそらく当時のワニかネズミと)。一方、6時の真似はわざとだろう。カエルを励ますにあたってまず思いついたのがその思い出だったということか。

そして今度はネズミが号泣してしまう。おそらくネズミはカエルを励まそうとする中で、ワニの思い出とワニの死後初めて向き合い、ワニが自分の中に息づいていることを実感したのではないか。このことによってまた日常が変貌したと考えると、ワニは死後非日常の象徴に変わった(ため日常の境目にいる)と考えることもできる。あるいは、死によって日常から脱落し非日常の存在になったワニを、非日常から日常に引き上げたのがこのシーンと言えるかもしれない。

いずれにせよ、ここで変貌した日常というのはあくまでもネズミの精神的なものである。カエルとも、他のワニ友とも関係のない、ネズミの内心にしかない日常だ。そう考えると、この映画でずっと描かれていた淡々とした日常というのはネズミの日常だったのではないか。ワニの死後映画全体が暗いトーンになったのはネズミの心象を反映したものなのか。まあ、そこまで掘り下げなくとも、ネズミがこの映画の真の主役であろうということは一見してわかる作りになっていると思う。

ネズミに限らず、この映画はそもそもワニの死後を描こうというコンセプトがあったため、当然死後(カエルパート)の主役はワニ友になる。あるいは「ワニの死」という事実が主役という言い方もできるか。それを考えれば、「100日間生きたワニ」という改題も納得だろう。これは100日間生きたワニの思い出とワニ友(主にネズミ)が向き合う物語なので、タイトルはワニ友の視点からの言葉になるし、「100日後に死ぬワニ」という神視点ではない。それに、冒頭で既にワニは死んでいるのである。これを踏まえると、前半のワニパートは全て回想、つまり過去の出来事だと言える。

まあ、ワニの人生は100日以上あったわけなので100日に限る必要はないけれども、そこを変えるとさすがによくわからなくなるので、適切な改題だと思う。

キャラクターについては、ワニとカエルについて少し語りたいところがある。

まずワニなのだけど、私はワニがかなり不快だった。これは完全に神木隆之介の声質と演技によるものだと思う。なんというか、すごく上滑りした純朴さのあるキャラクターなのが際立ってしまっていた。神木隆之介の演技が上滑りしていたというわけではなく、多分本来的にこのワニはそういうキャラなのだ。4コマではわからなかったというかあまり掘り下げられていなかったが、声がつくとこんなに印象が違うのかと驚いた。

また、ワニは原作でもなぜか上半身裸なのがデフォの服装なのだけど、映画で見ると余計に周りから浮きすぎていて変質者に見えた。この点、清潔感がなくて見ていてけっこう嫌だった。そういう不潔っぽいものとして描かれているならいいんだけど、たぶんそういう不潔っぽさを出す意図はないと思う。

カエルについてはもう見た人全員がウザいと思っただろう。いわゆる陽キャ……ではなく、陽キャになりたいキョロ充って感じのキャラだ。いやキョロ充とも違うか……。

実は私にはこのカエルまんまの知り合いが学生時代におり、当然非常にウザがられていたが、見ていてそいつのことをよく思い出した。こういう人は非常に精神的に弱いところを抱えており、それをカバーするために常に他人とつながりを持とうと焦っているので、本質的に陽キャではない。なのでいかにウザくとも、気を使ってやらないと心が簡単に折れかねない。常に自分を取り繕おうとしているので本当のことをあまり語ってくれないが、じっくり話す機会を作ってやると、虚勢を取り払って本心や悩みを簡単に話してくれたりする。そういう経験があるので、このカエルが出てきた瞬間どういうキャラかわかったし、描写のリアルさにだいぶ感心した。落ち着きのない仕草もあれば満点だった。

しかし、どういうキャラか読めていてもウザいものはウザいので、読めなかった人からすればもう怒りで劇場を出たくなるくらいの不快感だったのではないかと思う。ともすれば、それが物語の解釈に影響を与えてしまっている可能性もある。NTRとかなんとか言われてヘイトを集めているのがそれだ。

実際のところ、人間関係上どう考えてもこのカエルはワニの代わりにはなり得ないのだけど、ネズミがカエルを意味深に見つめる演出が数回あり、それがあたかもカエルにワニの影を見ているかのような演出であるため、代わりにしていると思われてもしかたがない。少なくとも、スタッフがそのつもりで描いている可能性は全く否定できない。

なぜカエルを介してワニ友が再び集まれたのか。これを示唆しているのがおそらくワニの最後のメッセージで止まったLINEだろう。最後にネズミがワニ友を集めるまで気づかなかったのだけど、あれはネズミとワニだけのトークルームではなくてワニ友のグループだった。ワニ友の誰も、あのメッセージの後にメッセージを送ることができなかったのだ。おそらく、ワニ抜きのグループを作ることもはばかられたのだろう。ワニ友の時間は花見の日で止まっていて、誰もそれを動かす勇気が持てなかった。それはワニを大切に思うからではなく、単にワニの思い出に触れることが出来なかったからではないのか。だから、一足先にワニとの思い出に向き合い、自分の中にワニがいるという実感を得たネズミがメッセージを送ることが出来たのだろう。

つまり、あくまでもワニとネズミの関係の結果であって、カエルは本質的にはあまりワニ友に関わっていないのだ。ただ、カエルの悲しみに触れることでネズミがワニに向き合えた側面はあるし、ネズミがカエルをワニと重ねている可能性もかなりあるのだけど。あと、どうしてもワニ友にカエルが加わって遊んでいる構図はそういう風に見えてもしかたのないところがあり、他に何かなかったのかとは思う。かと言ってカエルをハブるのも良くないが。

そもそもここまで突っ込まずに来たが、カエルがウザいキャラである必要性は全然なかったと思う。心を閉ざしたド陰キャどもに関わらせるためには空気読まずに突っ込んでくるやつでないと無理、ということだろうか。それはだいぶ雑な気がするけど。

実際、カエルがワニ友にどう受容されているのかはよくわからない。これはカエルよりもワニ友の方が問題で、どういうグループなのかがよくわからないのだ。全員ド陰キャだし。ワニとネズミとモグラのフリータートリオにそれぞれの彼女がついてきた感じになっているが、ワニとネズミとモグラの関係はそもそもなんなのか。原作ではなんかあったっけ。例えばこれといってバックボーンのない、たまたま知り合って仲良くなっただけのフリータートリオだったなら、ワニが死んだ後からカエルが入ってくるのもたやすく納得できる。しかし高校の友達とか何らかの共通項があったなら、カエルが入ってくるのはにわかに納得しがたいところがある。

このあたりが不明瞭なのもカエルに反感がわくポイントだろう。自分の中でのスタンダードな人間関係をワニ友に当てはめて見るのが当然で、恐らく多くの人のそれはカエルというなんの共通項もないよそ者をたやすく紹介して入れられるタイプのグループではないのではないか。私はワニ友は「同じ街に住んでる」くらいしか共通項はないと思っていたので、あまり違和感がなかった。

まあ、正直なところ、原作からして人間関係の考え方で理解し難いところはあったので、この映画で腑に落ちないそのあたりは、制作側との考え方の違いと考えてすぱっと割り切るのが無難かもしれないが、この映画においてそこが最も重要なところなので割り切りにくいとも思う。まあそこまでして楽しもうとする義務はないけど……。

とりあえず今日見て思いついたことはこれで全部書いたと思うので、最後に総括的なところを簡単にまとめる。

まず、全編虚無い。音楽も虚無を加速させるヤバさ。特に原作をなぞる前半は虚無度がヤバい。結末が確定してる上結末に至るまで何も起こらないのは極めて退屈。会話のテンポも遅くて言葉少なくて長い。こうなったのは、もともと映像化向きでなかった原作を尊重し非常に丁寧に忠実に映像化した結果だと思う。ただ、前半は原作を丁寧に映像作品として再構築していてそこは上手い。

後半の映画オリジナルストーリーについては、オリジナルにもかかわらずこちらも原作のテイストを非常に再現できている。つまり虚無。ただしワニ死後ということもあり陰鬱な雰囲気。オリキャラのカエルは個人的には嫌いではないが極めて不快。虚無と不快のダブルパンチ。やりたかったことはわかるのだけど、説明不足の点が多く納得がいきづらい仕上がり。

作画については、原作の絵柄をよく拾えている。立体としての再解釈が上手い。作画枚数はかなりケチっている印象だが、明らかに不自然なシーンはあまり見当たらず、悪くない。作画スタッフも少なく、このテイストのアニメなら許容範囲内だろう。「作画300枚」「紙芝居」「作画崩壊」という評価については、嘘(誇張)か勘違いだろう。

全体的にはとても丁寧ないい仕事をしている。この映画のレビューや感想については、「叩いてもいいやつはしこたま叩く」ネットの風潮を踏まえてか、嘘や誇張、悪意のある書き方などが散見されている。注意が必要。

どうしてもワニの死後のワニ友が気になるという人以外は特に見る必要はないと思う。映画体験としては悪い部類に入る。ただ、60分なので気楽に見れないこともない。