この文章は8月頭、修正した直後に書いて塩漬けしてましたが、書き直して今頃アップします。

ルックバック、面白かったです。ジャンプ+で公開された藤本タツキさんの読切漫画です。(今回はネタバレにクッションを置かないので注意してください)

ルックバックは公開されてすぐTwitterで話題になりました。ジャンプ+は異様に完成度の高い(それでいて連載向きではない)短編読切を載せることがしばしばあります。Twitterでバズっている作品、特にTwitter上で公開された漫画については、個人的には合わないものが多いのであまり見に行かないんですが、ジャンプ+の読切で話題になったものは打率が極めて高い。連載経験者が変名で掲載したりもしているので、熟練した作家の短編発表の場になっているのかもしれません。

内容について極めて浅い感想を言うと、かなり好みのクソデカ感情百合でした。百合と言うのに違和感がある人もいるかもしれない(人によって意味が違うので)ので説明すると、私にとっての百合とは好意(恋愛感情に限らない)を持った女性同士のクソデカ感情が描かれた作品のことであり、内容としてはイチャイチャでもすれ違いでも倒錯的行動でも、コメディでもシリアスでもいいです。

ルックバックのよくある感想の一つとしては、創作関係の描写に注目したものが多いんですが、私は読んでいてあまり注目しませんでした。子供時代に作品を友達に見せて褒められたり、あるいは子供っぽいとかキモイとか言われてしまうのは、悪く言えば漫画家にありふれたステレオタイプなエピソードです。それが共感を生んだところも多いでしょう。私も確かに子供の頃絵を描いて友達と楽しんだことやバカにされたことはあるし、実力のある作家に認知されて漫画を買ってもらって喜んだ経験は数えきれないほどあります(私があまり真面目に絵や創作に取り組んでいなかったので、今ほど寡作になる前に押し並べて見放された感があるけれど)。

ちなみにそうした作家相手とかでなくとも、京本に認められていたことを知った時の藤野に類した喜びを得られる場があります。直接自分自身が出席する同人イベントです。興味がある人は一度というか何回か参加してみてください。一人でも読者がいることの喜びがわかります。実際のところ藤野が歓喜したのは、京本は自分が元々認めていた作家だからというところよりも、熱心な読者がいたことに対する素朴な喜びの方がはるかに大きいでしょう。自分の作品に自信をなくしている時にそういう存在は本当にありがたいものです。

とはいえ、私にとってこの作品の面白さの中でそうした創作あるあるが占める部分はかなり小さいです。確かに似た経験はあったけれど、共感するかとか共感して楽しいかとかはまた別の話。自分の経験と重なると言うよりはよくあるステレオタイプな共通概念という印象を受け、他人事感が強かったですね。

藤本タツキ作品には、何かを宗教的に信奉し依存するキャラクターが頻出します。今回はそれが京本で、なぜそれが頻出するのかわかりませんが、得意とする造形ではあるんだろうと思います。藤野が「漫画の賞に応募する予定」と見栄を張ったのはなぜでしょうか。それは子供らしいその場しのぎの言い訳とか、褒められてやる気が再燃したとかいうところもあるだろうけれど、最大のファンである京本のためであるところが総合的には大きいと思います。まして自分が漫画を辞めた原因は京本その人であり、その通り伝えるわけにはいかなかった。その時から藤野の漫画は、ある面では京本のために描かれるものになり、相互依存の関係が熟成されていったと解釈することもできます。

なんにせよ二人の関係が漫画を通じて深まっていくプロセスを、大量のページ数で贅沢に演出の技巧を凝らして描いたところにこの作品の大きな魅力があると思います。

あと、作中作の四コマ漫画がとても良かった。この漫画の最重要パーツが二人の四コマ漫画なので、作品の全てに説得力を持たせる根幹なんですが、作中作にきちんと説得力を持たせるのは難しい。しかも子供の漫画なので年齢に応じた子供の感性にもリアリティを持たせる必要があります。子供の漫画だから面白くなくてもいいや、はこの作品では通用しません。そこに全くスキがなかった。

私も四コマ漫画を素人なりに描いていたことがあるけれど(なんかもう描かないみたいな言い方になっちゃうけどそんなつもりはないです)、こんなに作中で役割を持たされる四コマ漫画を描くのは考えるだけでキツイです。過去作も見た上での勝手な想像ですが、藤本タツキさんは普段から極めてロジカルに漫画を描く人なんだろうと思います。四コマ漫画は一般的なイメージよりもはるかにロジックが重要なので(安定した質を提供する場合に限るけれど)、ロジカルな作家さんは比較的描きやすいと思います。

で、ようやく標題の話題に入ります。公開されたのは7月19日でしたが、8月に入ってからまた話題になりました。ルックバックの作中描写が修正されたという話題です。改めて見に行くと、冒頭に以下のような文章が掲載されていました。

「作品内に不適切な表現があるとの指摘を読者の方からいただきました。熟慮の結果、作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え、一部修正しました。 少年ジャンプ+編集部」

何が問題だったのかと思って見ると、どうやら作中の殺人犯の造形が精神病患者への偏見・ステレオタイプである、あるいは実際の事件を想起させるということのようでした。まあ、確かに意味不明なことを言いながら妄想に基づいて暴力をふるう狂人というキャラだったので、言われてみればたしかにそうではあります。修正後は、これもこれで被害妄想ではあるし精神病のステレオタイプから脱したかと言われると疑問ですが、とりあえずまあ、修正したということのようです。実際の事件の方については後述します。

私は割とステレオタイプな狂人の描写、それも極めて意味不明なものが好きではあるし、それが凶行に走るという流れも好きなので、修正前と修正後ではやはり修正前の方が面白かったです。ただ、私自身今のところ妄想症等とは縁がないからそう思うんだろうと思います。私も自分と同じ属性を与えられたキャラクターがステレオタイプに従って珍妙なこと(とくに蔑視や嘲笑の対象になる行為)をしているのを見たら、好ましくは思わないでしょう。

当該描写については、現在の日本の一般的な倫理観から見て、修正前のまま突っ張れないほどの描写ではなかったような気もします。ただ、どの道将来的には受け入れられなくなり、(例えば再録の際なんかには)修正されることにはなっていたんじゃないでしょうか。

修正後の大体の読者の反応は惨憺たるものでした。そもそも作品に変更が入ることだけでも嫌う人、変更で面白さが損なわれたと思う人、あるいは人権的な観点やそのような圧力で表現が変えられることへの嫌悪感を表明する人がたくさん現れました。一方で修正を称賛したり、複雑な心境ながら受け入れるという人も多少は見かけました。犯人の造形こそが作品の核の一つであり、変更は作品の根底を覆すもので到底許せないと主張する人もいました。まあほとんどは、いわゆる創作におけるポリコレ悪玉論に類したものです。

私も、前述したようにステレオタイプな狂人は好きだし、ステレオタイプであることが作中である程度の意味を持っていたと思うので、面白さが毀損されたという気持ちはあります。とはいえ、別に私の中で犯人の造形は面白さのほんのごく一部……割合に例えれば1%未満でしかなかったし、特に作品の中で重要な部分とも思わなかったので、あまり気にしてはいません。今回の修正は藤野と京本の関係について直接影響するものでは全くないので、私にとっては本筋への影響はないんです。

流石に修正前を知っているとセリフが練られていないような気がして微妙ですが、知らなければこれはこれでアリなんじゃないかと思います。今日死ぬと思ってたか?というのも理不尽さを強調しているし、社会の役に立てないというのもその前の藤野のセリフに対応していて、ミスマッチというわけではない。ただ削ぎ落とされただけでなく新たな意味合いが付加されていて、セリフこそ練られておらず浮いている印象ですが、内容としてはより深みが出たような気もします。修正前のセリフは完全にナンセンスであり、理不尽感は強かったけれど、それだけではありました。ただ、個人的にはセリフ自体をなくしてサイレントにしても良かったんじゃないかと思います。藤野の乱入がより劇的になったかもしれないし。それにやはり、修正後のセリフは説明的で浮いていて好みではないです。

修正で失われた点としてはもうひとつ、犯人が創作者(少なくとも創作に関わりを持とうとする人間)だったという示唆があります。後述の事件を考慮せずにここに意味を見出すなら、創作が彼を変えてしまい犯行に至らせた面があるというところでしょうか。創作とはなんなのかという問いかけですね。ただ正直なところ、私はそこがこの作品のテーマとは全く思えず、あくまで藤野京本の二人の関係とそれに直接影響した創作体験がメインだと思うので、友達からまだ絵描いてるの?と言われたり藤野の創作が京本を死の未来に誘ったのではという後悔と、犯人のパーソナリティは全く別物だと思うわけです。

その上でさらに犯人のパーソナリティに意味付けをするなら、犯人の動機が創作絡みだったために創作一般の「役に立たないくせに人を傷つけることがある」という面を藤野は余計に痛感するというところでしょうか。ぶっちゃけそこまでは不要かなと思いますし、「藤野の」創作のせいで(正確には藤野が部屋から連れ出したせいで)京本が死んだかもしれない、という藤野自身の自責に関わるところだけでいい気がします。

さて、最初の公開当時、よく言われていたことがあります。この漫画のモチーフは京都アニメーション放火事件であり、当該事件への鎮魂の祈りが込められている、というような評です。京都精華大学生通り魔殺人事件を挙げる人もいました。要するに、全く前触れなく理不尽に創作者の命が奪われるという構造に着目したわけですね。また、京都アニメーション放火事件は2019年7月18日、ルックバックの公開は2021年7月19日です。

京都アニメーション放火事件の犯人は、京都アニメーションが自らの作品を盗作したと主張していたことが当時報道されていました。ルックバックの修正前の犯人も新聞記事で盗作の妄想を述べており、この符合も上記の考察に説得力を与えていました。その点を重視する人からすれば、犯人のパーソナリティは極めて重要な作品の根幹のひとつであり、変更は到底許容できなかったんでしょう。神聖な祈りを毀損されたとまで受け取っても無理はないです(まあ、祈りかどうか私は知らないけど)。

私はルックバックを読んだ後になってこの京アニと重ねた考察をたくさん見かけました。語弊があるのを承知で言うと、その時私はルックバックの面白さにケチをつけられたような気がしていました。別に現実の最近起こった事件と紐付けるなとは言わないし(むしろそれで深みが増す作品は多い)、納得のいく考察ではあったんですが、なんだか嫌でした。この気持ちの理由は今もってよくわかりません。ルックバックの話をする時に京アニの名前を出して欲しくないとすら思いました。

ひょっとすると、どこもかしこもその話ばっかりだったからかもしれません。京アニ事件や本作中の事件・犯人についての話ばかりでしたが、私にとっては1%未満です。この文章でも修正を受けて犯人の修正点とパーソナリティについて長々書いていますが、そのようにそこがことさらに注目されているというのが悔しかったのかもしれません。

こうしたことが起こると決まって創作とポリコレの関係について話題となります。端的に言えば、私はポリコレ(やそれに伴い創作の幅が狭まること)について肯定的です。創作はその時代その社会と無縁ではいられない(むしろよく反映する)し、現在が人類の創作史の最終到達点なわけではありません。時代は常に変化していき、その過程でなくなっていく表現もあれば、新たに生まれる表現もあり、その途上の現在という地点のみにおいて、今の私たちの表現がギリギリ成立しています(していないこともある)。まあ、私の好きな表現がどんどんなくなっていくのは寂しいですけど。

創作はその時代を反映すると書きましたが、今回の事はまさにその典型的なケースでしょう。狂人にステレオタイプな造形が用いられたのは、ステレオタイプが読者に説得力のある優秀なキャラ造形だからであり、読者の間で広く受け入れられている共通概念だからです。そして修正に不満をもった人たちの一部から、修正の原因となったと思われる精神病患者や人権・ポリコレといった概念に対する嫌悪・ヘイトが盛んに発信されたこともそれを示唆しています。

つまり、現に一般的に蔓延する風潮が当然にルックバックに反映されたものだと考えられます。仮に考察のとおり直近の事件をモチーフにしたのであれば、なおさら強く反映されやすいでしょう。

また昨今(とはいえ少なくとも10年以上前から)、創作や表現の「敵」を見出し嫌悪感と復讐心を募らせる風潮が拡大しているのを私は感じており、その中で(あるいは並行して)、創作行為(特に漫画やアニメ系)の神聖視みたいなものも感じています。私も以前はそうでした。そうしたムーブメントに、意図してか意図せずか、ルックバックはがっちりハマる作品であり、そうした点でも世相を反映していると思います。そうした風潮の中にいる人はルックバックを読んで共感を覚えたでしょうし、そこが損なわれれば自分が否定されたような気持ちにもなるかもしれません。

そうした点で、極めて時代的な作品だったと評することも出来ると思います。

ラストで京本の死後再び藤野は漫画に向き合い始めますが、どういった心境の変化で復帰したのかは明文化されていないため、自由な解釈の余地があります。藤野がなぜ見栄を張ったのかについての解釈を一つ書きましたが、他にも京本がなぜ藤野と別れ美大に進学したのか等、二人の関係についてこの漫画ではあまり明文化されていません。例えば後者については、藤野という存在とは別に元々持っていた絵に対しての情熱が抑えられなくなったという見方もあるでしょうし、なぜ京本は絵がもっと上手くなりたいのかについて作中振り返ってみると推察できる見方もあるでしょう。ラストについては更に解釈が分かれるところになります。

こうした解釈が分かれる要素について、SNS等で共有するのは難しいところがあります。ルックバックはSNSでバズった作品ですし、おそらく狙ってバズらせたかと思うんですが、バズで重要な共有しやすい要素として創作あるあるや京アニ事件想起、妄想世界の構成などがあったため、それらについての感想ばかり目立つ状態でした。このために今回の修正点はことさら大きな衝撃をもってとらえられた面もあるかと思います。バズったメイン要素ですから。

私は作品に対する自分の向き合い方として、あまり作品の解釈を言語化してこれと決めない方がいいと思っています。どうしても一面的で単純化した解釈になってしまうし、言葉にすることで、自分自身が単純化された感想で上書きされてしまったりします。もちろん感想を細かく言葉にして解釈を決めるのがアリな作品も(特に時代的な作品に)多いんですが、何も考えないで印象のままに見るというのがけっこう良い作品もあります。なんとなく、ルックバックも私にとってそんな作品ではないかと思いますし、今回のことで見えづらいけれど、意外と多くの人にとってもそんな感じなんじゃないかなと思いたいところです。

いや、この文章の最初でクソデカ感情百合とガッツリ単純言語化してしまってるけど……。