最近SNSを見ていて時々思う。
「そんな気がする」ベースの話が、「そんな気がする」人が集まるにつれて、「そうである事実」に発展していく。
そして、「そうである事実」を発信されると、それは事実なんだと素直に飲み込んでしまう。
でも実は最初から何も新しい情報は追加されておらず、「そんな気がする」レベルのままでしかない。しかしもはや公然の事実として扱われる。
変わったのは同じ考えの人が集まったことだけ。

妄想症の人がネットを介して集まることで妄想世界を固めてしまうことはあると思う。それは服薬休息を用いて治療すれば自然と消える類の妄想だ。
けれども妄想症でない人の考えは、たとえそれが事実と異なっていても、残念ながら治療で消えることはない。当人にとっては合理的な帰結だからだ。そして実際、合理性を保証するものが複数ある。それは同士の存在だったり、権威的存在の後押しだったり、都合のいい断片的な情報だったり、誤った観測結果だったりする。
そしてそれが事実と異なるかどうかも、傍から見ただけではわからないことが多い。

ネット上で疑惑を向けられたある組織に間接的にわずかに関わったことがある。その程度関わっただけでも、その疑惑は見当違いなことがわかるものだった。インターネットでウケのいい要素を散りばめた、実態に全く則していないストーリーでしかない。
しかし現実に全く関わったことがなければ、そんなことはわからない。仮に自分がそう言ったところで、信用が足りない。嘘か不完全な事実と見なされるのがオチである。まあ、自分では不十分なのは当然だけれども、なんにしても現実に正しい答えを出せる人が必ずしも信用を得ているわけではない。往々にして、むしろ疑われている。
そんなわけで、今のところ、疑惑を信じる人たちはそれを事実として未だに信じている(だろう)。
傍から見て、事実が何かを判断することは難しい。

エコーチェンバーという言葉がある。ここで書いている話も、それに包摂されるものなのかもしれない。
エコーチェンバーと聞いて想像するような、同士の間で濃縮して過激化する傾向があればむしろわかりやすい。行き過ぎた主張は一見しただけでなんか変だなと感じとれる。
しかし多くはそうそう過激化しない。「そんな気がする」を「そうである事実」に変えて、共有して終わりである。
場合によっては商売になったりするかもしれない。「体にいい気がする」を「体にいい」と事実化すれば、やっぱりそうなんだ、と受け入れやすい。
過激化しないので、一見してわからない。

「そんな気がする」ベースの話が、「そうである事実」に発展する。
でも実は最初から何も新しい情報は追加されておらず、「そんな気がする」レベルのままでしかない。
そんな気がする。