雑記
250622雑感 都議選の投票をした

昨日、都議選だったので投票した。
23日になって結果が決まってからこれを書いているのだけど、テレビとかが家になく、国政選挙でもないからか、選挙結果についてうまくまとまった情報が得にくい。
とりあえず議席数の増減だけを見たところ、自民が一気に減らしたのと、国民民主と参政が一定数の議席獲得(あと元N国も議席獲得)、再生の道が全落ち、というあたりが目についた。
あと気になるのは共産党がなぜか減らしているくらいか。最近の共産党を見ていると、このままだと行く先は社民党だぞ、なんとかしろ、という思いが持ち上がってくる。いや、自分は社民党のことも応援しているけど、現状はさすがに無視できない。

自分の基本的な投票行動としては、まず負ける方に投票することは決めている。別に落選する候補に入れるというわけではなく(都知事選みたいにそれしか手がないこともあるが)、当選したとしても議席で多数派にならない勢力という意味。つまり野党である。これはまあ、個人的にもどちらかというと野党の方が主張が合うということもあるけれど、それ以上に、健全な政治のためには与党と野党は拮抗しているべきだという思いがあるからだ。
投票する前から自民と都ファと公明で引き続き与党になることはわかっていたのでその三者は除外。国民民主や維新は一応野党だが与党寄りの振る舞いをしがちなので国政選挙の時も候補から除外している。
れいわは個人的にあまり好きではないというか問題の多い政党だと思っているので除外。
参政はそれよりはるかに問題外。論外。
再生の道も論外。そもそも主張がなく、やる気が感じられない。
そうなると残りは立憲民主、共産、生活者ネット、社民、無所属くらいしかない。
その中から自分の選挙区で当てはまる候補に投票したわけだ。ちなみに無事当選した。

もう一つの考え方としては、自分の選挙区に目を向けているか。都全体の政策ばかり語って足下を疎かにしていないか。地域への利益誘導こそ都議の本分だろうと思う。
これはシンプルに選挙広報を見て考えた。地域の政策に言及しているかいないか。
現職は与党・野党の候補ともにしっかりと地域の政治への言及があった。さすがだ。
無所属新人はやや突飛な政策を並べており紙面も手作り感溢れる不格好なスタイルだったが、キャッチコピーに地域名を入れたり、地元育ちを強調したりと、地域アピールはけっこうあったので、印象は悪くなかった。
ただ、うちの区では国民民主と再生の道の新人が立候補していたのだけど、その二名は(選挙公報の紙面では)地域への特段の言及が見られず残念だった。あまり地域に関心がなく、議席取りという意味での政治が優先で、当選してもあんまり仕事する気はないのかな?と思ってしまう。こういうところでも自分の中であの辺の政党のイメージが悪くなる。
とまあ、この点で考えても絞り込むことができる。

政策主張を吟味するのはそれらの後、という事になるが、おおむねここまでで決まってしまう。政策主張はやはり党の方針によるところが大きいので、与党野党その他と分けた時点で定まってしまいがち(候補者調整とかもあるし)。

結果について(まともな知識もないまま)考えると、自民が一気に減らしたのはどうなのだろう。裏金関連で公認を得られなかった無所属の実質自民みたいなのっているんだろうか。
国民民主と参政、元N国が議席獲得ということで、参政と元N国に議席を与えてしまったのは痛手。都民の良識は着々と失われていっている。
国民民主は実質与党に加えてしまっていいと思っているので、じつは野党勢力は都議選前より大幅に減退しているような気がする。
再生の道は全落ちということだけれど、再生の道に票を奪われていなければ勝てた候補というのも各区そこそこいそうな気がするので、都議選への影響はあったのではなかろうか。無作為に引っかき回しただけみたいな感じだけど。はた迷惑な人たちである。

そういえば、今回初めて出口調査を受けた。どこの調査かはわからないが、タブレットにタッチして回答する方式。
自分の年齢や投票先や支持政党のほか、前回の都知事選で誰に投票したか?裏金問題を重視したか?動画やSNSなどの情報を投票の参考にしたか?といった質問があった。
最後の質問はやはり注目事項なのだなと思う。
ちなみに、前回の都知事選や今度行われる参院選では、動画やSNSの情報を参考にした(する)と回答した割合が最も多かったのは30代以下だったという調査が複数出た。ネットの影響を受けやすいのはやはり若年層ということが示されているのだけど、今回の都議選でも同様の結果が各紙から出ている。やはり基本的に接触機会が多い年代ほどネットに影響されるというシンプルな話なのだと思う。
ちなみに自分は参考にしなかったと回答した。ほとんど選挙前の議席数と選挙公報のみで投票先を決定したからだ。

投票率は上がったらしい。
政治参加が進むのはいいことだが、その結果が良い結果だとは限らない。今まで政治に関心を持たなかった層が投票行動をしたとして、参政や元N国に投票したのなら、それは憂うべきことだ。
最近は自分も「みんな投票に行こう!」と言うような気持ちではなくなっているため、ツイッターには「おれは投票に行く、みんなも投票に行ったり行かなかったりしろ!」みたいなことを冗談で書いた。
実際、消極的にでも与党支持なのであれば、特に投票しないという選択肢もありだとは思う。投票しなかったからと言って怒られるべきだとか政治による不利益を甘受するべきだとかは、自分は思わない。
与党支持でなければ、できる限り多くの人に投票してもらって、与党支持票を薄めて欲しいというのはそうなのだけど、それならただ「投票に行こう!」とかいうぼんやりした言い方ではなく「〇〇党に投票してください!」とハッキリ言った方がいいのではないかと思う。言えない理由とかってあるんだっけ?

とりあえず思ったことはそんな感じ。

250622雑感 ピックルボールバーガーを食べた

バーガーキングの新商品(というには発売してから数週間経っているようだけど)のピックルボールバーガーを食べた。
3枚のワッパーパティを11枚のピクルスと一緒にライスパティで挟んだという代物。
自分はピクルスが好きなのでその点に期待をかけて行った。

感想としては、ご飯!肉!ピクルス!味付けはほぼなしの素朴な味!って感じで、高い値段(単品1790円、クーポンで300円引き)に見合う味ではなかった。
米と肉とピクルスが全く相乗効果を生み出さずバラバラ、わずかな塩コショウとピクルスの塩味があるだけ(その塩味もかなり薄く感じる)で、非常に淡白な肉の味に支配されていて逆に味が無いとすら感じる。
それでいてかなり油っこいので、味が無いのに重たさだけがあり、食べててうんざりしてくる。二口目くらいでもう飽きる。
これで初めて気づいたのだけど、ワッパーのパティって肉の旨味とか全然なかったんだな。
これほど淡白な肉肉しさに支配されるなら、ピクルスが30枚はないと味のバランスが取れない……というのはおれがピクルス好きなだけだけど、それにしても11枚もあるピクルスの存在感が薄く、完全に負けきっている。
旨味が足りずパサパサして油っこい巨大肉3枚について、なにもフォローがないのはきつい。ワッパーは各種具材とソースが肉自体の物足りなさを補完していたんだなと実感する。
これならライスもピクルスも抜きで肉だけ提供すればいいじゃんって感じ。ピックルボールとピクルスをかけるなら、普通のワッパーにピクルス山盛りの方が絶対においしかったはず。

まあ、これがおいしいと思う人もいるのかもしれない。
自分は、まあ、まずいとは言わないが、めちゃくちゃ退屈で、飽きの早いバーガーだと思った。

あと、ライスバーガーの類を食べるのがもう記憶にないくらい久しぶりなのだけど、出来たてはご飯が熱いのでなかなか手で持てなくて難儀した。手が猫舌(?)なので。
しかしバーガーがパンで挟まれているのは合理的でもあるんだなとも思った。

250615 映画を観た たべっ子どうぶつ THE MOVIE

たべっ子どうぶつ THE MOVIEを観た。6月15日、立川シネマシティにて。

オススメ度★★★☆☆

全体的に自分はターゲットじゃない感じを受けたけれど、面白かった。
ホロリと涙が流れたのは涙腺が弱まっているせいか。
他社のお菓子も登場するのがうれしいところ。ポリンキー、売上上がってるだろうな。

世界観がパッと見グローバルなわりに、合掌して「いただきます」など、話のベースが日本文化っぽいのが気になった。ただ、登場するのは日本のお菓子がほとんどなので、登場人物もみんな日本人なのかもしれない。

どうやら主役のライオン役はジャニーズのアイドルらしいが、全然違和感がなかったので、良かったと思う。
ネコのキャラは擬人化したらオタクに受けそうだなと思った。

250614 映画を見た サブスタンス

サブスタンスを観た。6月14日、立川シネマシティにて、字幕版、極上音響上映。

オススメ度★★☆☆☆

面白かった!
面白かったけど、イヤすぎ!グロくてキモくて痛そうで、展開もイヤなので、人にオススメはできないかな!といった感じ。
観たあとの夕飯今食べながらこれ書いてるけど、メシがまずくなる映画!ちなみにセブンイレブンのたまごかけご飯おにぎりを食べている。
映画の中で出てくる食い物も食い方も全部めちゃめちゃ気持ち悪い映し方で気持ち悪い音をつけられていた。
オススメ度星1でも良かったけど、でも面白かったからなあということで。

自分はこういうジャンル(ホラーでいいのかなこれ?)に不慣れなので、けっこう面食らった!
美醜や老いの話は恐怖と結びつくとグロに接続するから苦手……。
テーマ的にはたくさんの要素があって、ルッキズムや家父長制(その内面化)、ジェンダー、老い、親子、高齢者と若年者、セルフケア、とかがパッと思いつくかなと思うけれども、そうした社会性を持っていながら娯楽性の高い作品に仕上がっていたと思う。
ただ、こういう感じの扱い方でいいのか?と思うところもあった。

イヤなだけでなくけっこう笑えるというか、笑っていいのかわからないけどなんか滑稽さを感じて面白い、みたいなシーンもけっこうあった印象で、まあ、BGMで面白くしているところもあったと思う。例えば、エクササイズ番組のシーンとか。
あとは切ないシーンもけっこうあったりして。

以下追記。重大なネタバレあり。

自分は男性でまだ若い方なので、この映画の芯の部分をすくい取るのが難しい。
しかし、色んな人にとって、終盤の展開についての感じ方が色々あるらしい。

つまり、モンストロ・エリザスーのパートについてだ。

ちなみに自分は最初に鏡の端にモンストロ・エリザスーが映った時に本当にビビったのだけど、モンストロ・エリザスー自身もビビったみたいに鏡から一回離れていたなと思い返すと、ちょっと面白い。
モンストロ・エリザスー!と画面いっぱいに出た時は、笑っていいのかわからないけどなんか面白い、でもイヤすぎて笑えない、みたいな感情だった。

自分がモンストロ・エリザスーを観ていた時の感情は、痛々しい、かわいそう、見たくない、という気持ちが七割くらい。残り三割は不思議な温かい感情だった。
つまり、モンストロ・エリザスーになって、髪をセットしピアスをつけて外出する姿に、初めて何を憂うこともないエリザベスの純粋さと解放感を見た思いだったのだ。
それは鏡の前にへばりついて外出できず化粧をグシャグシャに崩していたエリザベスとは対極の境地。あの化粧を崩すシーンとそのあとのしょんぼり座り込むシーン、本当に辛かった。
そうして自らの中にあった自らを苛むものから解放されたモンストロ・エリザスーには、かわいらしさ、いじらしさのようなものも感じた。
だからこそ余計に痛々しくて可哀想だという気持ちが増してしまった。彼女は確かに精神的には解放されたかもしれないが、彼女が自分の行くべき場所、自分の居場所だと思って向かうところは、彼女を決して受け入れてはくれない。見え見えの悲劇に自ら突き進む人を見るのは辛いものがある。

しかしモンストロ・エリザスーは驚くことに大晦日の特番に堂々と登壇することに成功する。なんであれで止められないんだというのは置いておいて。
そこで正体がバレても「私よ!エリザベスよ!」と呼びかける姿は本当に痛々しかったけれど、鑑賞後に咀嚼してみると、あそこで自己を表明して受け入れてもらおうとするのも、自己に対する肯定的な認識があったからかもしれない。
そして最後には暴力によって傷つけられた結果、体から噴出する血液で会場を血まみれにしていく。この映画で最も印象的でことによっては滑稽に映るシーンだろう。人によってはこれを復讐とみていたし、その後監督の話を聞いても、復讐の意味合いはあったのだろうと思う。
ただ、観ていた時の自分は、これは真に自由を得たというシーンなんだろうなあと感じていた。
血が出ているのは女性が社会的に傷ついているとか、あるいは生理的な面もあったかもしれないし、どちらにせよそのような女性にまつわる表現で会場、とりわけ男性性を象徴するプロデューサー含む観客たちを血まみれにする、というのを痛快だと感じたのは否定しないが、それよりも自分は、血の勢いに任せてか、クルクルとステージ上で回り続けるモンストロ・エリザスーを観て、自分の居場所と信じた華やかなステージで自由に踊り続けているようだと思った。
鑑賞後にサブスタンスのOSTをサブスクで探すと、その中の曲名に「Pirouette」、ピルエットというものがあった。バレエのクルクル回るやつだ。つまり、やはりあれは踊りだったのだ。
自分は踊りにはポジティブな印象を持っているので、やはりあのシーンは自由と解放のシーンで、少なくともモンストロ・エリザスーというキャラクターの中では、復讐という気持ちはなかったのではないかと思っている。テーマ的には、自由と解放には出血と復讐が伴うのかもしれないが。
なので、人によっては、ここでもっと苛烈な描写で復讐をして欲しかった、いっそプロデューサーを殺しても良かった、と言うふうな感想も見かけるのだけど、あまり復讐に描写が寄りすぎると、モンストロ・エリザスー自身の内面との乖離が生まれてしまうのではないかと思う。

その後モンストロ・エリザスーは崩れ落ち、自らのウォーク・オブ・フェイムまで這いずったあと、そこから見上げた夜空とヤシの木を眺めながら満面の笑顔で絶命する。
このあたりに特に自分なりの解釈は持たなかったが、少なくともポジティブな印象を受けた。つまりはハッピーエンドだ。

なので、モンストロ・エリザスーのパートは、展開こそ外的評価とのすれ違いと摩擦による悲劇が起こっているが、キャラクターの内面的には終始解放感のあるポジティブなストーリーだったのではないかと思っている。

250611雑感

林原めぐみさんの件から、排外主義などに陥る前に何を伝えたら防げるのかということをうっすら考えた。
これは比喩表現だけれど、隣人を愛することを理解できれば、そうそう道を誤ることもない、誤っても修正可能だと思う。
しかし、隣人を愛せと言う前に隣人も人間であるということから教えるべき世界かもしれない。
あるいはそれ以前に、隣人が現に隣にいるということからだろうか?

被害者意識だけはいっちょ前のくせして、自分は社会から「排除」される側ではないと無邪気に信じて隣人を殴っている人々がいる。(比喩)
そういった状況で何ができるのだろう。せめて殴るのをやめろと言ったところで彼らはやめない。むしろ殴られているのは自分たちだと、よってたかって相手を殴りながら言ってのける始末だ。
沈黙せず加害者に正当な批判をするのは当然ではあるけれど、被害者へも何らかのメッセージを送る必要があるだろうとは思う。ここは排他社会だというメッセージだけを送ってはいけない。

最近ソシャゲのログインが疎かになっているけど、ソシャゲにログインしない生活めちゃくちゃ楽。鬱がひどくてもうソシャゲにログインするの限界。でも学マスのイベントやらないと……。

250610雑感 素朴な排外主義

林原めぐみさんがブログにて排外主義的な発言をした、あるいは韓国の陰謀論系YouTuberに心酔した、などとして批判を受けていた。
ブログを確認したところ、かなり婉曲的な表現で脈絡のない話題もあるが、以下のような特徴が見て取れるなと思った。

・韓国に好意的である。
・韓国の極右系YouTuberに心酔しているようである。(該当YouTuberは、反日勢力によって日本や韓国が危機に晒されているという主張をしているようだ)
・報道規制によって「真実」が伝えられず、YouTuberが「真実」を発信していると信じている。
・それらの発信が「陰謀論」と指摘されていることは認識している。(その上で主張している)
・迷惑な外国人の存在を強調している。
・外国人が不当に優遇されていると認識している。
・日本の技術や食糧までも外国人に奪われているという危機意識を持っている。
・外国人の規制・排除や外国人優遇への反対のため、選挙に行くことを奨励している。
・I have black friends論法を用いている。
・「日本らしさ」に固執している。
・外国人を侵略的外来種に例えている。
・自らの考えが「排外主義」と指摘されうることは認識している。(その上で主張している)

やや素朴な排外主義という感想を持った。これでもう少し日本の治安への影響に言及していたら、もっと典型的な現代日本の排外主義だっただろう。また、「日本らしさ」に固執する姿勢からは、少し歪んだナショナリズムも見て取れる。
「やや」素朴、と書いたのは、短い文章に批判を想定した予防線を複数張る悪知恵が垣間見えるからだ。批判を想定しつつそれを拒絶する態度ともとれる。良く言えば、信念があり、それを貫く態度という表現もできる。信念を形成しているので、排外主義者、陰謀論者としては、けっこう一線を越えつつあるのではないかと思う。
選挙に行くことを奨励しているが、この主張内容だと投票先は参政党か日本保守党あたりか。

外国人優遇のデマを鵜呑みにしたり迷惑外国人という仮想敵を作って、それを理由にして外国人差別を扇動している、とまとめてしまっていいのではないかと思う。
そのルーツのひとつが韓国人YouTuberというのがやや興味深いところだが、文面を見るに、単にこの人が好きな韓国人YouTuberの努力を知ってもらいたくて特別に言及した、というだけで、おそらく他にもルーツはあるのだろう。
とはいえ、そういう商売があることは面白い発見だった。保守層を食い物にする日本スゴイ系動画が跋扈していることは周知の事実だったと思うが、親日を装った外国人による反・反日ネタ動画に発展していたのは知らなかった。

こうした「素朴」な人とどうコミュニケーションをとればいいのかという議論がある。それは「陰謀論や差別主義から引き戻したい」という願いが念頭にあって検討されるのだけど、個人的にはなかなかそれは難しいのではないかと思う。
身近にいる人が根気強く説得して変化することや、この場合だと外国人の知人が増えると認識が変わることはありえる。
しかし彼女はI have black friends論法を使っており、つまりそれは「良い外国人」と「悪い外国人」を私が選別しますよ、という考えを意味する。彼女の周りにどれだけ「良い」外国人が増えようとも、「悪い」外国人(敵)に対する信念を曲げることはないだろう。
また、それも含めて上述のように複数の予防線を張っていることから、おそらく身近な説得や批判に対して既に態度を硬化させたうえでブログを執筆したと思われる。
ましてインターネット越しの語気の強い批判など、ただの不当な攻撃と認識して、受け付けるはずもない。
彼女は自らネット上に身を晒したことで、極端な批判と極端な賛同を受けてしまっており、より後者に引きずられていってしまうのではないかと少し心配がある。
あと可能性があるとすれば、基本的な人権意識(知識ではない)を身につけることが必要なのではないかと思う。このあたり、(他国がどうかは知らないが)日本国民は極めて人権意識が薄いと自分は感じている。外国人に人権があることを意識できるようになれば、排外主義から脱することもありえるのかもしれない。それをコミュニケーションでどうこうするというのにはかなり難しさを感じるのだけど。

また、著名人が無遠慮にこういう発信をするまでに排外主義が広まっているということが恐ろしいところだ。(そしてそれは今回のことでより熱を帯びただろう)
実際、外国人に対する反感の言葉を日常生活で聞くことはしばしばある。その多くは外国人優遇デマやクルド人差別などに基づいていたり、迷惑な外国人の影響を極めて過大に見積もっている現状認識に基づいていたりするものなのだけど、驚くほど素朴にそれらを鵜呑みにして、うっすらとした危機意識を口にする人がいる。日常生活であえて口に出す人がいるということは、心の中に秘めている人はもっと多くいるということだ。
実際、X(旧Twitter)における林原めぐみさんへの反応は賛同が多数となっている。まあ、X(旧Twitter)の反応数をどれだけ真面目に受けとっていいかはともかく、絶対に無視できない数の排外主義が存在しているということは確かだろう。

排外主義の広まりが恐ろしいと感じるのは、それは大きく見れば「敵を排除すれば社会は良くなる」という思想だからだ。内政の失敗や体制の問題について、住民を「敵」「味方」に恣意的に分断して、その責任を「敵」に押しつける考え方。その考え方が広く浸透している事実が「日本に住む全ての人にとって」脅威だと思っている。
(たとえば、林原めぐみさんは米がないのを外国人のせいだと暗に主張するような文章を書いていたが、明らかな内政の失敗を「敵」に押し付けている典型例と言える)
そのような考え方のもとでは、誰もが「敵」と見なされ得る。適当な属性や社会的立場を理由に「敵」と見なされ、不当な差別やヘイトスピーチ・ヘイトクライムの対象となり、それが国民の支持を集め始めると、いよいよ制度として国からの差別・排除の対象となってしまう。そしてその根拠となる考え方は単に「内政の失敗を「敵」と見なしたものに押しつけているだけ」なので、「敵」を排除しても根本的な原因は解決されない。まあ、「敵」を排除することで利益を得る人は得をするかもしれないが、メリットはそのくらいだろう。(メリットか?それ)

自分はそういう意味では日本という国において、悪い言い方をすれば、かなり有利な立ち位置にいる。日本の社会生活上、自分の属性によって不便を感じるところはまずない。「敵」と見なされそうな要素もほとんどない。
ただ一点、自分は精神疾患と睡眠障害を持っている。常に通院し、服薬し、福祉制度のお世話にもなっている。人並みに働くこともなかなかできない(無理矢理やっているけど)。
要するに悪く言えば税金を(全く生活に支障がない人より)多く食っているわけで、「敵」と認識される余地は大いにある。
精神疾患のイメージも悪いので、そういうところも危うい。
あとはまあ、体制に従順なタイプの思想持ちではないため、そういうところを拾い上げられる可能性もある。
社会的に有利な立ち位置にいる自分でさえ、いつ「敵」にされるかわからない。そうでない人は尚更、あるいは既に危機に晒されている。

誰かに厳しい国は、自分にも厳しい。
ここでいう国とは政府というより国民の集まり。
排外主義が外国人相手だからといっても、結局巡り巡って自分に降り掛かってくる。敵を欲する国ではそうなる。
世の中が本気で動いた時、一気に生存権は脅かされる。
だから今回みたいな排外主義の扇動は本当に恐ろしいと感じた。

あとは余談なのだけど、遠い昔に痙攣しながら倒れててんかんの疑いを持たれたことがある(結局てんかんではなかった)。そこで、疑いが晴れるまでの間、てんかんの人に向けられる社会の眼差しの厳しさを感じてしまった。
折が悪くその期間にてんかん患者が交通事故を起こしたニュースが大々的に報道され、てんかんに運転させるな・免許を与えるなという意見が噴出していたのを覚えている。そこには排除すべき「敵」に対する敵意があった。
運転するてんかん患者は服薬で発作を抑制しているし、運転中の失神や硬直などという意味では別にてんかんに限らず他の病や健康な人でも起こり得ることだ。自分もてんかんではないのに痙攣し失神したのだから。だから個人的にはきちんと症状の落ち着いているてんかん患者に運転させるのは反対ではない。
ただそういうことは置いておいても、自分が被差別側に一時的にでも片足を突っ込んで、折悪くバッシングが起こり、その敵意を自分事として感じたという経験は、その後の自分の考え方にかなり影響を及ぼしたと思う。

多くの人々はたぶん、何かの折に自分が待遇などで不当な不利益を被っているなどということを認識することはしばしばあれども、自分が社会から排除すべき敵として見られている恐ろしさを感じた経験は、多分ないだろうと思う(それは「多くの人々」には向けられないから)。どちらも被害者意識を持つという点において言葉では同じだが、体験の質は全く異なる。
そういう意味では、なかなかない体験をしたと思っている。良い思い出ではないけれど。