君たちはどう生きるかのネタバレを含む。
君たちはどう生きるかについて、一応ひとまずの自分なりの感想を書き終わり、その上で2回目を観た。
どの映画を観る時も、観た直後の自分の第一印象というのはとても貴重で自分にとって価値のあるものだと思っている。なのでそれを書き留めるまでは他の人の詳しい感想を目に入れないようにしている。影響されてしまって、印象の記憶がズレてしまうから。まずは自分なりの土台を作って、あくまでその上に仕入れた解釈や考察を積み上げたい。
というわけで、やっと安心して他の人の感想を見るに至ったのだけど、みんな自分よりも解像度が高くて驚いている。ストーリーの理解度とかもそうだけれど、細かい描写の記憶とかその時どう感じたかまで、実に記憶が細微だし、言語化の仕方もうまい。そういう驚きはいつものことなのだけど、今回はとくに驚いている。よくもまあこんな情報量の多い映画を(多くの人は初見で)そこまで消化できるものだ。もちろんその上で大体の人はよくわからんと消化不良に陥っていたけれども。
初見で感想を書く時、あるいは作品を見る時に極力避けている視点がある。メタ視点である。作品外の要素と言ってもいいかもしれない。
それを考慮するべき映画はある。アメコミのマルチバース・クロスオーバー展開なんかは嫌でもそれが目に入る。作品外の要素は作品読解の上で欠かせないことも多い、というかほとんどそうだ。批評の価値はそこにある。何某がキリストのメタファーで、だから作劇がこうなっている、とか、それはキリスト教圏内だと基礎教養レベルの話だったりもするので、それ抜きで語るのがむしろおかしいこともあろう。さすがにどうしても避けると不自然になる時は無理はしない。
今作に例えるなら、眞人が宮崎駿だとか、大叔父が宮崎駿だとか、アオサギは鈴木敏夫なのではないかとか、あるいは13個の積み石が宮崎駿の過去作を表すのではとか、大叔父と眞人の問答はジブリ宮崎駿の後継者の話だなとか、若い頃の母と冒険したりするのが宮崎駿の性癖だなとか、そういう話である。そっち方面で掘り下げるのも当然あるべきだと思う(いや性癖がどうとかはミーム語りに足突っ込んでるから良くないかもしれない)。
ただどうしても初見時だけは、そうしたものから解き放たれた、物語の中だけで完結する解釈に集中したい。あまり見立てでキャラやストーリーを消化するのではなく。それをそのようなものとして楽しめるのは初見時しかないのだ。特に事前情報を絞られた今作ではなおのことそうしたかった。これはある程度実践できたように思う。
それを踏まえて、ある程度なんでもありの状態で2回目を観た。
結果、やはりけっこう面白かった。
初見時は何が出てくるのかわからないホラー的なハラハラがあり、一体何が出てくるんだ……何が出てくるんだ……と思いながら観てたら思いの外何も出てこずに終わったという感じもあった。例えば「我を学ぶものは死す」の墓の主なんか、一体何がいるんだと思っていたら、出てこずに終わったし、大叔父が契約した石もかなりの異物感を持って描かれてドキドキするのだけど、特にすごい状態変化を起こして震撼させられるというようなことはなかった。アオサギもどんな怖いことになるのかと思いきやコミカルなおじさんになり友達に収まる。作劇・演出的にわかりやすいカタルシスのようなものをあえて避けているような気さえする。カタルシスこそあまりなくなんだかヌルッとした終わり方だったものの、プロセスでドキドキハラハラしたのは楽しく、初見時はそういう面白さが大きかった。
2回目は初見時特有の未知や驚きがまるっとなくなったわけだけれども、代わりに演出やストーリーをじっくり味わう余裕ができて、わかって観ていてもドキッとするなというシーンもあったし、少し涙ぐんだシーンもあった。
しかし2回見てもストーリーがよくわからず、まあ積み木のくだりはわざわざわかりにくくしてくれてるので無理して消化しきる気もないのだけど、その他もなんだか飲み込めないというか、ストーリーがぐんぐん前に進むのだけど動かしている動力がなんなのか分からないというすわりの悪さがある。
これは夏子を探しに石の塔へ行くまではあまり感じないのだけど、異世界に入って以降は「何でこの物語は動いてるのかわからない、目的のないただの現象を見せられてるようだ」と思っていた。現実パートでは明らかに眞人の精神的な居心地の悪さというか危機に基づいてストーリーが動いていたのに、異世界以降はそれがよくわからなくなる。
そもそも夏子がなぜ異世界にフラフラ入っていってもうここにいたいと言っているのか、それが眞人の冒険の主目的なわけだけども、そこがよくわからないまま、急にキレられたりして、また説明もなく終わってしまう。夏子はなんなんだ?
こうした疑問について、他の人達の感想を見ていく上で、自分が見落としていたストーリーの要点を二点見つけることができた。
まず一点は「君たちはどう生きるか」の本がどういう役割を果たしたか。これは原作を未読なので読んでいなければわかりにくかったのかもしれないが、別に未読でもいいようにはなっている。母の遺品であるこの本を読むことで眞人は既に変わっていたのだ。
本を読んだ直後、石の塔に突入する際、キリコが「夏子がいなけりゃいいと思ってんだろ、それなのに行くなんておかしいよ」と言う。本を読む前の眞人なら行かなかったかもしれないが、眞人は夏子(ひいては現実?)に向かっていくことを決めたのではなかろうか。何にしても何かしらの前向きな変化があったと見ていいと思う。
だからそれまで眞人の居心地の悪さが物語を駆動していたのに対し、ここからは眞人の前向きな意志が主体になっていく。君たちはどう生きるかを読んで涙を流すシーン前後で眞人の変化に気づけなければ、その後はなんだかよくわからないただ流されていくような気持ちのまま物語を眺めることになるかもしれない(遅かれ早かれ眞人の変化には気付くのだけど、きっかけがどこかわからないので眞人が掴みどころのない少年になってしまう)。
さらに言えばこの本は母からの贈り物、つまりヒミからの贈り物である。ヒミは眞人の行動と選択を見て、例え焼け死ぬ運命だとしても眞人を産めるなら良いとまで意識を変えられるが、その行動と選択がこの本に由来すると考えると、君たちはどう生きるかを中心に時を超えた母子のやり取りが行われているストーリーだと見ることもできる。
一見して物語の序盤と終わりにチラッと出てくるだけのなんの意味もないアイテムに見えていた「君たちはどう生きるか」だったけれども、たしかにタイトルになってもおかしくないキーアイテムだったのかもしれない。やはり内容も(眞人の考え方的に)ある程度関わっているのだろうか。
もう一点は夏子の心情。初見時も二回目も全然このキャラのことがわからなかったのだけど、それは特に夏子の心情を気にもせずにただのとらえどころのない継母キャラとして消化していたからだった。そもそも自分は各キャラの心情理解を疎かにしながら映画を観ていて(正直表面的な物語と絵を追うので精一杯だった)、中でも特に物語を理解するキーとなっていたのが夏子だった。メインキャラだし、そもそも眞人は夏子を探して冒険してきたわけで、重要でないはずもなかった。
もちろん見逃したのには理由があり、表面上夏子の心情がわかりやすく描かれるシーンがほとんどないのである。眞人の絆創膏を撫でて泣くシーンと、「大嫌い」のシーンくらいじゃなかろうか(ラストシーンを除く)。見る人が見れば他にもあるんだろうけれど、自分は2回見てその2つくらいだったので、まあよくわからなかった。
なので産屋で「大嫌い」と言うシーンも母としての方便のひとつ、つまり偽なのではないかと思っていたのだけれど、あれを真としてストーリーをとらえ直すと、見え方が全然違ってくる。
眞人に対してネガティブな気持ちを抱えていたということは同居する夏子の暮らし自体もネガティブなものと言える。互いにひとつ屋根の下で疎み合って暮らしていたということだ。
であれば、夏子が石の中にいたいと言うのはネガティブな現実からの逃避であろうという推測がたつし、異世界に行ってしまったのはそうした気持ちから誘われていったのだろうと思われる。
産屋から眞人を追い出そうとするのは眞人がネガティブな現実そのものだからで、「大嫌い」という本音をぶつけても「お母さん」と呼んで取りすがる眞人に対し心が解けて態度を変えるのもわかる。「大嫌い」の後の夏子は明らかに真に眞人を想う母としての態度をとっていたため、自分は一見して「大嫌い」は眞人を危機から遠ざけるための母としての方便なのでは?と思ったわけだ。
理想的には、「大嫌い」のところで「ああそういうことだったのか!」となれば良かったのだけど、自分はそうはならなかった。
これをさらに拡大して、そもそも石の中にいる人々はみんなネガティブな現実から逃避している人なのではないか?という考察をする人もいた。夏子を探しに潜る眞人はともかくとして、ヒミやキリコはどうなんだろう。現実に戻る術を知っていながらずっと(少なくとも1年)留まっていたということは、そういうことかもしれない。であれば、眞人を見てポジティブな意味で現実に戻る選択をしたヒミのドラマにもまた深みが出る。
ただ、正直映画単体からそこまでは読み解けないかな……という気もする。
この二点を踏まえてもう一度観れば、ストーリーの理解度もグンと高まるんじゃないかと思う。さすがに3回も見に行くかはわからないけれど……。
話は変わって、ちょっとどうかと思っていることについて少しだけ。上述したミーム語りについてだ。ちなみにミーム語りというのはさっき作った造語なのでなんか別の適切な言い方が欲しい。
宮崎駿ともなるとあまりに有名すぎて、インターネット上ではキャラクター的に親しまれている。ドキュメンタリーやインタビューなどから断片を繋ぎ合わせて出来上がり肥大していくミームとしての宮崎駿。
それ自体はまあそういうこともあろうとは思うのだけど、あまりにそのキャラクターに親しみすぎて、それに基づいて「宮崎駿はこうだから、この作品もこうに違いない」と考えていそうな感想も多々見つかった。その感想の結論自体が的外れとは言わないのだけど、どうも虚構の宮崎駿に現実の宮崎駿を単純化してはめ込もうとしているような気持ち悪さを感じた。主体は逆のはずだ。
例えば共に冒険するヒミが実は若い母親だったことを「駿の性癖」と評する人がいるが、はたしてそうだろうか。よしんばそうだとしても、宮崎駿の母や少女に対する観念をどこまで理解していると言うのだろうか。それは性癖と呼ぶにふさわしいものなのか。それがどの程度反映されているのか。そうした複雑なコンプレックスを「性癖」というミームで単純化してネタとして消費しようとしているのではないか。
ついでに言うとそういう感想はやけに宮崎駿に対して親しみを持った態度であることが多い。旧知の友人かのようだ。他の作家においても言えることだけれど、こうした距離感がバグっているように見える人は、対象のことを人間というよりキャラクターとしてとらえていると思われる。そしてまた、複雑な人間よりは単純化したキャラクターで理解する方が物事を飲み込みやすかろうとも思うので、しかたがない面もあると思う。自分もそういうことはする。
メタ視点をなるべく避けたいのはそういうところもある。自分が思う宮崎駿は現実と関連性の薄いただの虚構かもしれず、それに基づいて映画を観るというのはスタート地点からゴールまで決定的に間違えたまま映画を鑑賞するということになる。それは自分の中の内輪ネタを撫で倒して終わるだけの虚無だ。せっかくの映画がもったいない、と自分は思う。
とりあえず今君たちはどう生きるかについて思いついたところはこんな感じ。
またなにか思いついたら書くかもしれない。