バービーを観た。もちろん男一人で観に行った。簡単にネタバレ感想。
(追記:観た直後に急いでノリで書いたので書ききれていないところや誤解などがあるけれど、どうしても気になるとこ以外はとりあえずそのままにしておきます)

この前今年の上半期観た映画ランキングで書いたとおり、今年はもう既に面白い作品をたくさん見てきていて、特にその中でもザ・フラッシュとアクロス・ザ・スパイダーバースは出色の出来で、早くも今年ベストはこの2作かと思っていた。「まあまあ面白い」とかいうレベルではない2作だ。
そこに突然バービーが飛び出してきた。訂正。今年のベストは早くもこの3作か。メジャーどころでこのクラスの作品が何個も出てくることはないと思うので、今年はもうこれくらいだろう。多分。
昨年の観た映画ランキングは1位がNOPEで2位がブラックアダムだった。NOPEはIMAXレーザーGTで観たのもあるが確かに傑作だったし、ブラックアダムも面白かった。ただ、今年は昨年基準だと既にNOPE以上が3作も出ている。ヤバイ。

なんというか、とにかく笑えて泣ける映画となっている。吹き出すのをこらえられなかったシーンがいくつもあったし、一方で中盤以降はずっと目が潤んでいる状態(涙があふれたのは中盤と終盤で計2回)だった。それでいて様々なステレオタイプを皮肉りつつ別のステレオタイプにはハマらないように注意深く展開するストーリー。特にマーゴット・ロビーの涙を誘う演技力。観ていて楽しいダンスシーン。LizzoのPINKを始めとした優れたサウンドトラック。マジで音楽がいいのでサブスクで探そうと思う。(追記:手がけてるのマーク・ロンソンかよ!?そりゃ合ってるわ……)

脚本の情報量も多く、とにかく社会的ステレオタイプに対する言及が多いし、あと他映画ネタへの言及も多い。そういう意味ではハイコンテクストな映画と言えるかもしれないが、近年の映画は多かれ少なかれそういう要素があり、そもそも映画自体がハイコンテクスト化しつつあるのかもしれない。
あと、日本人はステレオタイプや差別といった問題に対して無頓着な人が多いので、そういう意味で突然アメリカ基準の問題意識をワッと浴びせられてギョッとする、というところもあるかもしれない。例えば、多人種が出てくるのはもはやアメリカのリアルの反映でしかないのだけど、日本人から見るとホワイトウォッシングされた映画の方が受け入れやすい(アメリカ基準で多人種が出ると作為的に見える)とかは、典型的なところかと思う。まあ、そういうのは観る側の問題だし、海外映画を観ていけば自然と慣れていくと思うのだけど。バービーは特に直接的にステレオタイプを掘り下げているので、日本人としてはやっぱりギョッとするかもしれない。日本人は国内の環境だけだと、ステレオタイプに対する問題意識が育ちにくい。これも日本人に対するステレオタイプだと言われればそうなのだけど。
溢れんばかりに詰め込まれている皮肉も一方的なものはほとんどなく、多面的に見れば別の立場も含まれており、きわめて注意深くテーマに昇華している。ただ、一面的に見れば極めてラディカルな映画にも見えるのは間違いではなく、こういうのを理解しようとするのはやはり基礎的な問題意識がないとなかなか辛いところがある。問題意識の乏しい人だと、初見では一面的な見方に終始するかもしれない。

得手不得手を抜きにしても難しい映画であることは間違いないが、しかし細かい部分は抜きにしても笑いあり涙ありで楽しめる作品に仕上がっていることもまた間違いない。
楽しめそうにないなら無理に行く必要もないが、見に行って損する映画ではない。個人的には、一つの到達点として映画史に残る一作になると思う。気になる人は是非。上映規模があまり大きくないのでお早めに。

以下ネタバレ。

なんというか、マーゴット・ロビーの演技力がすごくて、彼女のつらい表情を見ているとこっちも非常につらい気持ちになってくる。こういう言い方はアレだけど、表情だけ見ると辛気臭く画面も暗い極上のヒューマンドラマを見ているかのように思わせられる。色味の明るいコメディ映画なのに。
中盤以降ずっと目が潤んでいるのは半分以上マーゴット・ロビーの表情づくりによると思っている。

中盤以降泣いてたと書いてはいるけれど、どの辺からかというと、バス停?で老婆にバービーが語り掛けるシーンだろうか。それとも、サーシャにバービーが語り掛けるあたりからだろうか。
老婆のシーンは象徴的すぎて、終盤バービーが人間になると言った時、「ひょっとしてあの老婆は人間になって老いたバービーなのか!?」と思った。そんなことはなかったけれど。
サーシャのシーンはとても痛々しい。バービーは自分たちのおかげで現実世界(の女性)が良くなったと信じているけれど、現実がそればかりでないことは観客も一番よくわかっている。なのでサーシャに語り掛けるシーンはまさにこれからバービーの信じていることを否定しますよ!壊しますよ!というフリなわけで、そんなの涙腺に訴えかけてくるに決まっている。
しかし同時に、この辺りで明確に「バービーの持ち主はサーシャの母(グロリア)である」ということが察せられるので、そこからはけっこう熱い展開も期待できた。トイ・ストーリー的な泣き所というか、おもちゃの持ち主とおもちゃの間に絆が感じられるというのもなんだか涙腺に来るものがある。
なので、バービーのピンチにサーシャ親子が車で駆けつけ、カーチェイスを開始するあたりで涙腺が決壊した。グロリアはバービーを見つける前と比べて、明らかに表情に活力がわいてきている。これもグロリア役のアメリカ・フェレーラの演技力の賜物かと思うのだけど、その生き生きとした顔も相まって、ちょっとしょぼくれていた中年女性が人間世界に現れた自分のおもちゃを助けてカーチェイスするという展開が熱くて熱くて火傷しそう。あのシーンは本当に良かった。
2回目に涙腺が決壊したのはどこだったか覚えていない。もうそんなことを気にする余裕はないのだ。

序盤、中盤、終盤とこの作品を分けるとすると、序盤はバービーランドを出るまで、中盤は現実世界、終盤は再びバービーランドに帰ってから、という構成になるかと思う。
序盤はまあ当然短いのもあるがけっこうかったるいというか、バービーの世界観紹介シーンでそこにドラマもあまりない(ケンが抑圧されている描写はある)。ただの明るく変なコメディなのだけど、中盤、現実世界に出たとたんにガクンとその落差にやられる。現実世界に笑いどころが全然ない。いきなり奇異なものとして見る視線に刺される居心地の悪さ。バービーは特に性的なものとしても見つめられる(股間はツルツル=性器がない、のに)。いきなりきついんだけど!心の準備できてないんだけど!それがいい。

ケンが男社会に目覚めていくシーンは面白く、スタローンが映った時はちょっと吹き出してしまった。男社会に気持ちが浮き上がってしまい、女性を医者だと認識しなくなっていたのも面白い。バービーランドではおそらく医者もバービーだろうと思うのだけど。
マテル社の役員が全員男なのもとても良かった。女の子のためのバービーランドを作っているのが全員男というのを、ただそのまま絵面にして見せただけでなんとなくグロテスク。バービーでなくても「女性の方はいないんですかね…?」という気持ちにさせられる。これは現実世界への失望感と、同時にケンが男社会に染まりまくっているのも相まって、ここも男社会かと落胆してしまうことによるだろう。
もっとも、最後まで見ればわかるとおり、CEOだって女の子に対する一応の信念があってやっているわけで、男だから悪という描き方にはなっていない。一見して今作の悪役にも見えた役員陣だが、最終的にはケンの道場で売り上げが上がるよりもバービーの世界観を重視して、わざわざバービーランドまで来て終わる。正直何がしたいのかよくわからなかったが、ポンコツなコメディ役なのであまり考えなくてもいいかもしれない。

今作ではある種男と女の対立構造みたいなものがあり、現実世界は男社会になっているし、バービーランドでは最終的に女社会が勝つことになる。
ただしバービーランドにおいてもともと抑圧されていたのはケンたちの方であり、性別が逆転しただけで、現実世界とバービーランドでは構造的にあまり違いがないことが示唆されている。現実のマテル社役員が全員男だったように、大団円に至っても、バービーランドの最高裁(だっけ?)判事は女だけでケンは希望してもなれず、下級の判事にかろうじて割り当てられるに過ぎない。現実世界における女性の立ち位置は、バービーランドではケンの立ち位置かもしれないわけだ。
バービーという題材もあり、女性讃歌のようにも取れる作品ではあるが、実際にはこういう相対化のような構図になっている。男社会が女社会を侵略してきたから撃退したぞ、という話ではないのである。でなければケンをこういう扱いにはしない。

とはいえやはり一つ悪者になっているのは男社会、というか、ジェンダーステレオタイプであろうと思う。ケンはバービーランドに男社会というステレオタイプを持ち込み、ケンたち自身もバービーもそのステレオタイプに落とし込んでしまった結果、一旦はケンダムを築き上げるも、ステレオタイプな男性性の弱点を突かれて敗北してしまう。
ケンは「バービーの眼差しの中でだけ生きられる」というセリフがあったと思うが、ケンはバービーと違ってケン自身の価値を認められていない。バービーに依ってしかアイデンティティを保てないか弱い存在で、だから男社会に触れてたやすく染まってしまったと言える。自分が薄かったから、男というだけで価値と役割を与えてもらえる価値観は魅力的だったのだろう。
バービーが罠のため「彼女になりたい」とケンに告げるシーンでは、ケンは一旦引っ込んでガッツの雄たけびを上げた後、クールな男として「考えさせてくれ」みたいなことを言う。自分はここであまりの取り繕い方に吹き出してしまったのだけど、結局これが、ケンが男のステレオタイプを演じている象徴的なシーンだと思う。序盤のケンならば告白されたとてこんなことはしない。
男社会のステレオタイプに飲み込まれた(洗脳された)バービーたちは、グロリアの演説を聞いて正気に戻る。グロリアの演説は男社会で抑圧されている女性の叫びであり、女社会に生きる女だったバービーたちには本来あまり関係がないのだけれど、一旦男社会に飲み込まれたから響く。
ケンたちもバービーたちも、ステレオタイプに飲み込まれて自分自身(アイデンティティ)を見失っているのである。
ちなみに、ケンは最後に「馬があんまり関係ないと知った時から正直冷めてた」みたいなことを言うのだけど、ケンダムの雰囲気とかを見るに、文化としては西部劇に強い影響を受けたのかもしれない。ここにアイデンティティの萌芽を見ることができる、と言えるかもしれない。

主人公のバービーは「定番」のバービーである。ステレオタイプなバービーと言い換えてもいい。バービー自体が女性にある種のステレオタイプをもたらしたと言うのは作中でも触れられるが、そのステレオタイプそのものだ。本人は自分は良いロールモデルだと思っていたから、サーシャに否定されてショックを受けてしまうのだけど、決して悪いロールモデルだったわけでもない。
しかし、ケンでもそうだったけれども、定番故に何も属性がついていないためにアイデンティティが希薄な面がある。作中で繰り返し「自分には他のバービーと違って何も能力がない」という風なことを言う。物語序盤では「バービー」でいれば問題なかったために顕在化しなかったが、いざ「バービー」抜きで周囲と相対化した時に「自分は何者でもない」という悩みを抱えたキャラなのだ。そしてそれは現実世界の誰もが持つ悩みでもある。このバービーは全ての女性の一面を表しているバービーだとも言える。
だからこのバービーには「これから何になるか」を自由に選ぶことができるのかもしれないし、だからまず選んだのが人間だったのかもしれない。

……と、テーマ的にそうかもしれないという想像は置いておいて、ストーリー的になぜバービーが人間になることを選んだのかが今思い返すとよくわからない。なんだっけ?
脚本の情報量が多くて、観ていてけっこう理解が追い付いていないところがある。
これは訳の問題もあるかもしれない。今作は字幕で観たのだけど、「股間がツルピカ」という訳をしていて、後で調べたら要するにこれは「性器がない」ということだったらしい。そういえば他のケンとかのセリフで言い方は違うけどそんな表現があったような気が……記憶にない。
何にせよ、これでは性器がないという情報がうまく伝わらない。
なのでラスト、婦人科を訪れたシーンも釈然としなかった。まあ、病院に行くってことは人間になったってことなのかな。よくわからんけど。くらいの理解だったのだけど、上記の意味を踏まえると、婦人科に行くと言うことはつまり「性器ができた」ということで、もっと直接的に人間になったことを示している。
となると「股間がツルピカ」のセリフは結末の理解につながる極めて重要なセリフであり、それがこんな伝わりにくい訳になったのはもったいないと思う。まあ、色々制限もあった結果だと思うのだけど。(追記:なんか、字幕でも「股間がツルピカ」の後に「性器が無いの」と続くらしく、自分の記憶からスパッと消えたのかもしれない)

アメコミ映画をよく見ている身としては、シム・リウやキングズリー・ベン゠アディルが頻繁に映るので、おっ、シャンチーとグラヴィクだとなって観ていてちょっと楽しいし、男洗脳から解放されたバービーが「ジャスティスリーグのスナイダー・カットを観てる気分だった」という風なことを言ったのはかなり笑った。
男が好きな映画を女にひたすら説明するステレオタイプ、いわゆる「出た……『ダークナイト』」状態の天丼もあるので、あ、スナイダー・カットもやっぱそういう立ち位置の映画なんだと腑に落ちた。そりゃそうだよな。男洗脳が不快な地獄という描写はない(これはこれで楽しいみたいな描き方だった)ので、多分スナイダー・カット自体は面白いという描写だと受け取っておく。スナイダー・カットがこの世に生まれていなければ、ここのセリフはダークナイトだっただろう。

色々と描ききれないし誤解や抜けもたくさんあると思うのだけど、記憶もなくなってきたのでこの辺で。
さっさと自分なりの感想を文字にして早く他の人の感想を見たいという気持ちで書いているので、あまり長々と書いてもしかたない。多分これで十分だろ!終わり!
自分の理解力と記憶力が足りないのが悔しい!時間さえあればもう何回でも見たい!