映画の福田村事件(監督:森達也)を観てきた。
事件の概要もストーリーの概要も公式HPに書いているので、ネタバレというネタバレもあまりないのだけど、一応ネタバレありで感想を書きます。

今年は関東大震災100年ということで、当時の朝鮮人虐殺についてもいつもより話題を見かけることが増えた。
例年だと、小池百合子都知事になってから朝鮮人犠牲者追悼式典に都知事名の追悼文を送らなくなったのが(虐殺を否定する右翼団体「そよ風」への配慮と言われている)、今年も送らなかった、というニュースになるくらいだったように思う。
今年は特に、朝鮮人虐殺を否定する歴史修正主義的発信も多くなり、しまいには官房長官まで「事実関係を把握する記録見当たらない」とか言い出す始末で、少なくとも自分が子供の頃と比べると、歴史修正主義の影響力は増しているらしい。10年後には朝鮮人虐殺を国として否定しているかもしれない。
まあそんなご時世だからか、朝鮮人虐殺に関連するこの映画「福田村事件」はもともとけっこう話題になっていて、観たいなと思っていた。
朝鮮人虐殺自体は自分にとっても幼いころから常識だったのだけど、その陰で日本人に日本人が殺されていたというのは興味深い題材だった。

感想を書く前に、この映画について実は事前予習みたいなことをしたことは書いておく。普段あまり予習はしないのだけど、たまたま手の届くところに興味深いものがあったので、つい手が伸びた。
うちの職場は部落解放を購読していてたまに暇つぶしで読むのだけど、部落差別のことばかりでなく内容が多岐にわたっていて、意外と面白い。その2023年9月号が「特集●関東大震災とジェノサイド 加藤直樹監修」ということで、特集内で福田村事件および映画福田村事件について一記事記載されている。「複合差別による虐殺「福田村事件」の真相―「朝鮮人誤認説」はなぜ流布されたのか 藤田正」というのがそれだ。「福田村事件追悼慰霊碑保存会」代表の市川正廣氏にもインタビューを行い、コメントをもらっている。
なにしろ仕事中にチラ見しただけなので内容をつぶさに覚えてはいないのだけど、この特集の内容が映画の受け取り方に影響した感は否めない。
タイトルからもわかる通り、この記事は「朝鮮人と間違えて殺された」という定説に疑義を呈している。複合差別─そこには当然朝鮮人差別も含まれていただろうが、それだけではなかろう、という感じ。映画でも強調されているけれども、被害者の行商一団は被差別部落の出身者であり、部落差別や行商への偏見なども複合していたのではないか。また、流言飛語の広まる中、朝鮮人だと間違えて殺したと言えば「善意の加害者」として刑の減免が狙える風潮があった、みたいなことも書かれていた。複合差別説は上述の市川氏の持論でもあるらしく、朝日新聞の記事などでも言及されている。うろ覚えで書いているので、気になる人は部落解放の該当号を買ってみてほしい。660円。
あと、映画は微妙に事実誤認があったりするらしい。例えば公式HPでは大正天皇の崩御による恩赦、とあるが、正しくは昭和天皇の即位による恩赦らしい。そこ以外に何が指摘されてたか覚えていないのだけど。
というわけで、そういう内容を事前知識としてもってから見た、ということで感想を書いていきたい。

まず、これまでなかなか日の目を見なかった事件を映像化した意義は当然ある。邦画としてもきちんとしたクオリティを保っている。
ただ、自分にはどうも刺さらなかった。乗れなかったと言った方がいいか。それはストーリーの肉付けの仕方が合わなかったんだと思う。
福田村事件は元々証言や資料が少なかったこともあって、細かなことはわかっていない。それはつまり、映像化するにあたっては事実として簡素すぎて、埋めるべき隙間が多いということだろう。この映画は140分あり、福田村事件を描くにあたっての時代背景などの副次的な情報もできる限り入れたのがわかるが、それでもやはり情報の羅列ではなく一つのドラマとして成立させるには多くのフィクション的解釈やキャラクターを創造する必要があったのだろう、そこまで肉付けした結果の140分だろうと思う。
そして、時代的な背景を説明するシーン、フィクションドラマとしてのストーリー、それを成立させるために創造されたキャラクター、それらが福田村事件という歴史的事実から「浮いて」しまっているように感じた。こちらとしては福田村事件というステーキに映画的な肉付けが上等なソースとしてかかっているくらいの映画を望んで行ったのだけど、実際には塩コショウだけのステーキの横に大量の副菜があったという感じで、ステーキを食べに来たのに植物と魚ばっかり食わされてるみたいな。例えが下手か。

多分観た人の大半が思ったと思う部分について触れると、恋愛関係のこじれ、要る?
旦那が戦争に行っている間に咲江が倉蔵と通じていた、と言うのはまあ時代背景的にあってもおかしくないというところで、ある種戦争の悲劇としての一面ではある。この映画は戦争後朝鮮統治中という時代背景からか、反戦的な主張にも足を突っ込んでいるので、それをやろうとするのであればまあ理解できる(それにしたって井草家でも同じことをやっているので別にいらない気もするが)。
しかし澤田のセックスレスからくる静子と倉蔵の不貞というのは、けっこうな尺を使ったわりにちょっと意味が分からなかった。澤田のセックスレスの理由は提岩里教会事件に関与したトラウマからというのがあり、これも時代背景の説明ということで作品に入れ込むのはわかるのだけど、静子関連のドラマまるごと要るかこれ?という感じ。
ラストで澤田が殺害を止めに入るのは「あなたはいつも見るだけなのね」という静子の言葉に影響されたというのもわかるのだけど、それ要る?という感じがぬぐえない。
いちいち、それ要る?それ要る?という感想になぜなってしまうのかと言えば、これがけっこう本筋のストーリーとして時間を使って描かれるからで、その割に最後まで福田村事件と関係がないように見えるからだ。
澤田は提岩里教会事件の当事者ということで十分役割が持てているように思うし、であればこうした夫婦関係のこじれよりももっとそれを活かした何か別のストーリーが主軸の方がよかったのではないかと思わなくもない。今回は村の出身者という設定があるけれど、完全な部外者にして村民や村外の朝鮮人・被差別部落民と交流を深めたりするストーリーだと事件の残酷さが際立って良かったかも(平凡な発想だけど)。

あと、澤田で言えば、この映画のハイライトの一つに澤田が提岩里教会事件の体験を告白する長回しのシーンがあるのだけれど、ここは事件を映像で見せてほしかった。澤田役の井浦新の演技力が発揮されているシーンという風にもあまり見えなかったので、長回しでずっと井浦新を映している意味が感じられず、それよりは映像での回想が入った方が自然ではなかろうかと感じた。あまりに長いので、語り続けるのすごいなあと思いつつも、いつになったら場面が変わるんだろうと正直思ってしまった。
あと韓国語で喋るシーンは字幕を付けてほしかった。澤田夫婦はわかるのだろうし、話の流れで何となく推測できるのだけど、字幕は欲しかった。もしあったのに見逃してただけだったらごめん。

次に思ったのが、やけに現代的価値観が開陳・演説されるシーンが多い。戦争に対する考え方や報道に対する考え方、差別に対する考え方などだ。
別に当時の人がそのような価値観を持っていて悪いというわけではないのだけど、どうも今作はそのようなセリフを聞いていて台本を読んでいるような感覚がぬぐえない(演技力の問題ではなくなんとなく説明的なのである)。現代人が紛れ込んでないかここ?という気分になる。特に日日新聞記者の恩田は問題意識の強さが現代的すぎると思ってしまう。
口論に発展することもしばしばあり、話の起伏をつけるためにわざわざ現代的価値観をぶつけているようにも見える。
これも個人的な好みの話にはなるが、例えば恩田のキャラクターはもう少し弱弱しく、大勢に流れてデマを新聞に載せつつも個人として朝鮮人を見捨てきれない良心はある、くらいのキャラクターにしておいた方がよかったのではないかと思う。
生き残りの子供が「みんな名前があったんです」みたいなことを言い始めるのも唐突な印象で、これも事件に対する現代的な視点が混入しているように思う。
現代的視点は現代の観客向けの救いなのかもしれないが、自分の好みとしては、もっと福田村事件(ひいては関東大震災下の虐殺)については人間の弱さを強調した救いのない陰惨な出来事として描いてほしかった気がする。

今作の虐殺についての解釈は「官がデマを流布し朝鮮人虐殺を促した」という面が強く出ており、確かに歴史的にもそういう一面はあったかと思うが、そのためか直接的な加害者への目線がかなり同情的だと思う。やむにやまれぬ恐怖の中で混乱しているように描かれており、どうもみんななんだか腰が引けている。もっと暴力的に殺害する場面はあって良かったろうと思う。その点、敬一を囲んで槍でめった刺しにするシーンはなかなか良かったし、最初に新助が殺されるシーンも無情さがあって良かった。敬一は進歩的なキャラクターだった分、殺害される直前に「俺は何のために生まれてきたんや」というのも虚無感があって良かった。
同情的なのは長谷川が「お国のために」と言いながら涙を流すシーンにも表れているが、正直戦時下でもない虐殺の加害者でお国のためにはないだろうと思う。まあ、村のためにまではわかるが、お国のためには行きすぎ。
この辺り、上述した部落解放を読んだ影響があるのだと思うけれども、「お国の流したデマに騙されて朝鮮人と間違えて行商人を殺した」というのはかなり事件を単純化しているようにも思えてしまう。

また、これも部落解放を読んでいた影響だと思うけれど、新助のキャラクターについても違和感があった。
派手な格好をして路上パフォーマンスも行い弱者に効果のない薬を売りつける行商という役どころなのだけれど、まあ「弱いものはより弱いものから奪っていかないと」みたいなことを述べていたので弱者に売りつける点はともかくとして、被差別部落民が派手な格好で路上パフォーマンスを行うかというとちょっと疑問がある。この辺りは市川氏も疑問を呈していたかと思う。
ただし以前に観た「破戒」では、富豪となった被差別部落民も登場していたので、あるいはそういう人々もいたのかもしれない。
しかしながら福田村事件については情報が少なく、この新助のキャラクターは映画側で作り上げたフィクショナルなキャラクターだろう。それを考えると、この映画での新助のキャラ付けはいささか極端すぎるという感じがあり、特に殺害される直前に反抗的な態度を取っているのも創作であろうと思われるので、あたかも反抗したから殺されたと見えかねないのはドラマ作りのために踏み込みすぎではないかと感じた。
その反抗的な態度というのも、上述した「現代的価値観の演説」に近いものであったため、こいつは自分の今の立場をわかっていないのか?という飲み込みづらさがあった。
あと、らい病患者に薬を騙して売ったりする一方で、寄付をしたり朝鮮飴を買ってあげたりするキャラ造形もちょっと飲み込みづらさがあった。金に困ってるのかどうなのかよくわからない。

軍人会?ちょっと名前を忘れたのだけど、とにかく長谷川を始めとした軍服の村民たちが虐殺の扇動的立場に立っているのだけど、おそらくこれもフィクションだと思われる。とすると、これが軍人会である必要はあったのだろうか。正直なところ、この事件の理解としては「関東大震災下で朝鮮人差別の下に起こった殺戮」くらいだったため、戦争、お国のために、が絡んでくるとけっこう話が変わってくる。上述の提岩里教会事件は下地として意味のある登場の仕方だったと思うのだけれど、やけに軍と戦争の影をちらちら見せてくるのはなんか違う気がする。

おそらくただぽかんと映画を観た自分みたいな人は全然意味が分からなかったと思うのが、平澤計七の登場だ。終始福田村自体には一切関係しないのだけれど、突然劇作家として登場して、突然労働者万歳みたいなこと言って殺されて終わる。一体何なのか。
その答えが明らかになるのがラストの説明文で、具体的な文言は忘れたけれど、要するにこの作品は福田村事件のみならず関東大震災下の殺害を包括的に扱っているのである。その被害者の中に「社会主義者」が含まれており、そこで初めて「ああ、あいつは社会主義者だから出てきて殺されたのか」とわかる。平澤計七は実在の人物で、殺されたのは亀戸事件という。
ただ、正直福田村事件として必要だったかというと疑問が残る。朝鮮人虐殺は前提だからわかるけれども、社会主義者は出てくる意味があったのだろうか。出てくるのであれば恩田の取材だけでなく澤田あたりと交流があってもよかったのでは。

総じて言うと、この映画は福田村事件の時代的背景を語りつつ、関東大震災下の虐殺全てを包括的に描こうとすることで、映像化に足りない部分を肉付けしていったということができると思う。浮気?それはいったん忘れよっか……。
ただ肉付け部分が箇条書き的というか、福田村事件そのものに有機的につながっているわけではないので、福田村事件とそれ以外の部分が分離して見える。
要するに福田村事件と福田村事件以外でストーリーが分かれているように見えてしまう。そして個人的にはやはり福田村事件の部分、つまり行商人達が取り囲まれるあたりから虐殺されるまでの部分が物足りないながらもけっこう楽しめたというか、この映画の中では評価が高めな部分だ。できればもっと、百人以上人がいて、大量の人間が陰惨な暴行を重ねるような、全てが崩壊していく感じであってほしかったのだけど。
福田村事件以外のストーリーはまとまりがなく、説明的で、現代的な視点が混入しており、没入感に乏しく退屈だったことは否めない。
包括的に描くのであればやはり関東大震災そのものをある程度描くことは必要だと思うのだけど、震災下の混乱や虐殺についてはほとんど映像的に描かれないまま終わっている。提岩里教会事件の映像回想がなかったことからも、どうもあんまり制作の余裕がなかったのかもしれない。
また、「戦争」や「お上・お国」への批判的な視点というのも今作の重要な要素ではあるのだけれど、これもあまりマッチしているとは思えなかった。水道橋博士の熱演には申し訳ないが、長谷川みたいな軍服を着て思想からして前のめりな人物に煽らせるよりは、大した思想のない村民が差別心から自発的に暴力に飲まれていく方が、事件の描き方として良かったのではないかと思わざるを得ない。何度も言うけど、「お国のために…!」と言って泣くのは違うだろうと思う。もちろん、官(国)が流言飛語をまいたというのはあるのだけど……。

朝鮮人差別、部落差別について扱っている作品でもあるのだけど、差別の扱い方についてもややぬるいというか、当事者感が薄い。
朝鮮人は脇役も脇役でちらっと出てくるだけだし(急に肝が据わって自警団に向かって朝鮮名を名乗るのも現代的視点の混入した感じが強かった)、行商団の直面する部落差別が目に見えて描かれるわけでもない(バレたら買ってもらえない、程度)。
昨年観た「破戒」は部落差別を描く作品であったけれども、差別の緊張感は破戒の方が断然よく描けていた。破戒では人間関係の中に差別構造が混入しており、無遠慮な差別心に囲まれる中で被差別部落民であることを隠す主人公の追い詰められていく様がヒリヒリして良かった。
福田村事件ではそのような追い詰められた緊張感はない。間違いなく差別が主題の一つである映画としてこれではちょっと物足りない。

個人的にもっとこうだったら好みだったかも、というところを言うと、もっと朝鮮人虐殺を大きく描いて、なおかつ福田村事件そのものについては単に朝鮮人と間違われただけでなく「複合差別」論に寄せて、行商だから殺してもいいだろ的な視点を混ぜてくれるとよかったかもしれない。そして被差別部落民の行商としての生きづらさにもっとフィーチャーしてくれると良かった。
特に朝鮮人虐殺は福田村事件の重要な前提なのだから、朝鮮人を端役で一人出して殺して終わりではもったいなさすぎると思う。もっと当事者に直接向ける悪意も含めてモロに朝鮮人差別を出して、虐殺の暴力に飲まれていく人々を描いてこそ、福田村事件の惨劇が引き立つのではないか。今作の朝鮮人差別は当事者のいないただの説明になっているように思う。
福田村事件についてはやっぱり、うっすら「朝鮮人じゃないかもしれない」くらいの疑念を持ちつつまあいっかと虐殺に加担して、「朝鮮人と間違えただけだから俺は悪くない」「国が自警団を作れと言ったのだから俺は悪くない」くらいの居直りをする様まで見せてほしかった。解釈はいろいろあるかもしれないが、間違いのないところで言うと結局は「朝鮮人は殺してもいいよね!」という認識の下で行われた殺戮なので、そのくらいの居直りはあると思う。非道な殺戮に手を染めておいて「俺は善意でやった」と居直って自己弁護するどうしようもなさ、そういうものが欲しい。「お国のために…!」とか言って泣いている場合ではない。この点やはり長谷川的なお国大好きキャラはちょっとミスマッチだったかなと思ってしまう。
あと構成的には、澤田が提岩里教会事件のトラウマを抱えつつ村民や朝鮮人、平澤計七あたりと良好な交流を深める一部と、新助が被差別部落民の行商としての生きづらさの中で奮闘する二部、震災下で澤田が交流した朝鮮人たちや計七が無残に殺されていく三部、澤田の制止も効かずに豹変する村民が行商団を殺戮する四部、くらいの感じでやってほしかった気がする。

箇条書きにすると以下のような感じかしら。

良かった点
・映像的なクオリティはしっかりしている
・殺戮シーンはけっこう見応えがある(特に敬一が殺されるシーンは良かった)
・永山瑛太と東出昌大はかっこいいし、井浦新の長回しも結構よかった
・水道橋博士は熱演

ピンとこなかった点
・フィクション部分のストーリーが浮いている(特に静子、井草関連)
・キャラ造形に違和感があるキャラが多い(静子、新助、恩田、長谷川など)
・時代的背景の描かれ方が説明的で散発的(非有機的)、映像描写が足りない
・現代的な視点がセリフに混入していて溶け切っていない
・差別の描き方が当事者感が薄くて手ぬるい
・事件の加害者にやや同情的すぎる感がある

(9/22追記)
他の人の感想を読んでいて、記者の恩田について、女性記者ということも含めて存在自体が嘘のキャラクターで、福田村事件というのは報道されるのも遅かったし結局当事者などの意向もあり歴史から隠蔽されてしまったのが重要な問題点のひとつでもあるのに、こういうキャラを女性ジェンダーとして配置してしまうのは如何なものか、という感想を見かけた。(https://note.com/crowclaw109/n/nf66bb72ba48f?sub_rt=share_apc&s=09 有料部分未読)
確かにラストで「報道します」と言い切る姿を見て「あれ?ろくに報道されなかったんじゃなかったっけ」と疑問を持ったのは確かで、重要な指摘だと思うので追記で書き留めておく。
自分はあくまで事実を基にしたフィクション劇映画として見ていて、女性記者というところはフィクションとしてギリギリ飲み込めたので特に問題には感じていないのだけど、恩田がやはり報道できずに厳しい現実に屈するような「福田村事件・その後」がワンシーン描かれていても良かったと思う。そういう意味でもやはり恩田のキャラクターは上述したようなやや弱いキャラクターにしておいて欲しかったかも。
自分の解釈としては、恩田の存在はやはり現代人向けの代弁・救いなんだろうと思う。ただそういうのは極めて上手にやらなければ劇映画としては陳腐な嘘のコンタミでしかないと思うし、この映画はそういうところが多い。そこかしこに現代人の気持ちの逃げ道を配置する必要はあったのか。逃げ道のない地獄を求めていた身としては、やっぱり残念な気持ちになるのだった。