大怪獣のあとしまつについては鑑賞直後の感想とは別途で感想をアップしようと思って書きかけで放置しているのだけど、シン・ウルトラマンを見た結果、思ったよりこの両作にはシナジーがある気がした。
その辺について簡単に対比して書いていこうと思う。
当然ガッツリネタバレ。
あ、ちなみに最初にスタンス改めて書いとかないと怒られると思うので明記しとくと、個人的な感想としてシン・ウルトラマンと大怪獣のあとしまつ、どっちもあまり面白くはなかったです。楽しもうとすれば楽しめるところはどっちもそこそこあった。面白さ比較はナンセンスだけど、シン・ウルトラマンの方が若干面白かったかな。そんな感じ。

先ず便宜上、以下では大怪獣のあとしまつのデウス・エクス・マキナについてもあとしまつのウルトラマンと呼称する。あと怪獣と科特隊の表記についても変換が面倒なのでこのままにする。

・ウルトラマンについて
シン・ウルトラマンでは、地球にやってきた外星人リピアが、自分の飛来時に子供を庇って死んだ神永に関心を持って融合する。人格はリピア。変身に特に制限はないが(体力不足ではある)、光の国や宇宙の掟などが存在している。人間として人間の中で暮らすうち、人間に関心とアイデンティティを抱くようになり、人間のために自己犠牲を選ぶ。
大怪獣のあとしまつでは、数年前に何かがあってアラタがウルトラマンになる。人格はアラタ。アラタはこの際数年間行方不明となったため、あとしまつのウルトラマンにはなんらかの問題があることが示唆されている。また、どのような理由か断言できないが、本人の意思としてギリギリまで変身を避けようとする。秘密を抱えながら再び人間の中で人間として過ごし、信頼するヒロインに秘密をいずれ明かすことを約束するも、悪意ある人間の策略により地球を去らざるを得なくなる。

ということで、シン・ウルトラマンでは人間に降りていく神、あとしまつでは人間に戻りたい神(元人間)という違いがある。リピアにとって地球は新天地だが、アラタにとって地球は故郷だ。
リピアはまだ上位存在として人間を見つめ庇護する立場にあるが、アラタは人間という自意識を初めから持ち続けている。
そうした前提をもって、躊躇いなく変身するリピアと最後まで変身しないアラタの差を考えれば、アラタはまた人間として地球で暮らしたかった(あるいはヒロインの側にいたかった)と思われる。そして再び変身をすれば何らかの理由(変身に係る制限・ルールや正体を明かすことでのデメリットなど)でそれが叶わないのかもしれないが、本編では明示しない。まあなんにせよ「地球人アラタ」ではいられなくなるのだろうとは察しがつく。
最後の最後、本当に人間の手に負えなくなるまで変身しないアラタを自己中心的と言えるかもしれないが、神以前に一人の人間であることを考えれば、最初からそうしろとは、自分は全く思わなかった。
人間としては有り得ない身体能力と耐久力で、それでも人間の姿のまま単身死体処理に挑む姿は、どうしても人間のままでいたいという意思を察するに十分だったし(まあ無茶すぎるだろと笑ったけど)、その上であろうことか私情でミサイルをぶち当てられて人間としての可能性を全て潰されたのはかなり悲惨だった(ひどすぎて笑ったけど)。

・ウルトラマンと人類の関係について
シン・ウルトラマンでは、度重なる怪獣襲来のため、人類は意思疎通不在のままウルトラマンを受け入れる。その後ニセウルトラマンや正体の判明など外星人による攪乱を経て、意思疎通のうえ協力関係を構築。ただしその結果、ウルトラマンとメフィラス星人の活動によって地球人の潜在能力が露見し、危険視した光の国がゼットンを送り込む。人類はウルトラマンという神と比較して自らの無力を嘆くが、ウルトラマンによる技術供与と、自分は神ではない(人間と次元の異なる存在ではない)というメッセージにより奮起し、能力を発揮させる。人類の見出した対処法を手にゼットンに立ち向かっていくウルトラマンを見送り、帰還を願う。
大怪獣のあとしまつでは、ウルトラマンは正体を隠したまま怪獣を倒し人類の目から隠れる。元の人間アラタとして人間の手により怪獣の死体処理という問題の後始末をはかるが、人類の不手際によって怪獣の安全な死体処理が不可能になる。それはアラタを疎ましく思う秘書官が、アラタからウルトラマンの正体を晒す以外の手段を奪う策略だった。アラタはやむなくウルトラマンに変身し死体を持って地球を去る。

要するにシン・ウルトラマンでは人類はウルトラマンを受け入れてコミュニケーションし、最後には帰還を願うのに対し、あとしまつでは人類はウルトラマンをウルトラマンとしての意思疎通抜きで地球から追い出してしまう(なので厳密にはウルトラマンだから追い出された、というわけではない)。
どちらの作品も別に人類全員がウルトラマンに対して統一したコンセンサスを持つわけではないけれど、リピアは科特隊等の面々から帰還を望まれて帰還を誓う一方で、アラタは恋敵に邪魔だからどっかいけと追い出されてしまう。

シン・ウルトラマンは人類についてどちらかというと肯定的な見方(莫大な潜在能力があるが大きなリスク弊害が伴う)で、リピアの考え方を含めて、作品として人間賛歌の要素がある。
一方であとしまつは明らかに人類を一貫して愚かなものとして描いたブラック?コメディである。下ネタギャグとか誇張と偏見に満ちた政治描写、行き届かない安全管理や愚策、利権で思い通りに処理が進まない。その中心には実はあろうことかアラタ周りの三角関係があり、最終的に秘書官が私情でミサイルをアラタにぶっぱなすというラインを何重にも超えた愚行をする(当然アラタの正体に察しをつけた上でやっているのだけど)。

他にも少し共通する面があり、どちらの作品も人類は作中で「ウルトラマンのやったことの後始末」に直面する。
あとしまつの方は当然怪獣の死体なのだけど、シン・ウルトラマンはゼットンがそれだ。どちらも人類を助けるためにやったことではあるけれど、何事も未来に影響を残すもの。
あとしまつでは言ってしまえばアラタの自分勝手である。ただ上述したようにアラタにはアラタの人間としての人格と望みがあり、そして特に邪魔が入らなければ実は割と処理が成功しそうではあった。愚かとはいえ一応みんな前向きに対処はしていたので。秘書官以外。
そこを踏まえると、アラタは死体であれば人類の手で処理できると信じたのではないか。アラタが最後まで変身しなかったことには、人間の可能性を信じたことも理由の一つとしてあるのではないかと自分は思う。その結果、人間はアラタの信頼に応えられず(というか裏切ったまである)、ウルトラマン一人に全てを任せる結果となった。
シン・ウルトラマンのゼットンについても、銀河が消滅するスケールの出来事に絶望する滝をリピアは信じてデータを託した。そして滝はその信頼に応え、人間とウルトラマンの協力でゼットンを打ち破ることができたのだ。
ただしそれも結局はほとんどウルトラマンの自己犠牲を前提にしていたのだけれど……。

この辺り、数ヶ月しか離れていない同時期の同モチーフの作品で対比できるのが滅茶苦茶面白いと思うのは自分だけだろうか。

・パートナーについて
シン・ウルトラマンの浅見はリピアが神永と融合してから神永と会う(つまり実質的にリピアとしか面識がない)。このため観客は互いの関係性のスタートを本当にゼロから見られる。
中盤でリピアの正体が露見した後も対等な関係が続き、恋愛感情は介在しないように見える。バディだから協力する、助け合うという関係はあるように見える。対等な関係と言えば、途中、メフィラス星人によって巨大化させられ、ある意味ウルトラマンに似た存在になったのは面白いところかもしれない(記憶はないし、単なる過去作小ネタで意味はないと思うけど)。
最後には帰還を信じてリピアを見送る。神永の体は戻ってきたが、人格が神永かリピアかはわからない。
あとしまつのユキノはアラタの元カノであり、現在は秘書官の妻である。この三角関係がストーリーの軸なのだけど、情報が小出しなのもあり重要性も含めてかなりわかりにくい。
ユキノはアラタにキスしてくるし、秘書官は別の女性と関係持ちいうダブル不倫まで加わり、まともなやつがアラタしかいない……という絶望状態。
ユキノはアラタの未練でもあり、ユキノの存在がアラタの判断に大きく影響していると思われる。アラタが秘密を打ち明ける約束をしたのはユキノへの信頼の証だろう。
最後にミサイルで地面に叩き落とされたアラタのもとへ(なぜか)駆けつけ、アラタが変身して怪獣を地球外へ持ち去るのを目撃する。ここで初めてアラタの正体を理解し敬礼で見送るのだけど、その内心はあまり表現されていない。アラタが帰ってくるかもわからない。ご武運を、という謎のセリフは、死体を持ってただ去っていくウルトラマンに向けるものとしては違和感がある。少なくとも苦難に向かっていく人間に向ける言葉であり、もはや地球人として生きられず新天地へ向かうしかないアラタの未来を示す別れの言葉なのかもしれない。

パートナーについてはあんまり対比にはならないが、まあ最後に見送るところだけは一致している。
なんとなく印象として浅見は活躍が少なかったような気がするけれど、そこは人間側のドラマや活躍が少なかったからだろうと思うので、少し惜しい。
というのも、浅見にはリピアと恋愛感情を持たせても良かったのではないかと思う。恋愛感情でなくても親密な関係描写。リピアが人間に関心を強める理由というのが、シン・ウルトラマンではかなり希薄になってしまっている。そこを補強できる可能性があったとすれば浅見だろう。
その点、ユキノは中心人物としては十分に役割をもらっている。ただ、娯楽作品にユキノみたいなのがいると絶対嫌だという人も多いだろう。ただでさえ恋愛要素は嫌われがちな上にバカみたいな三角関係と来たら。

・チームについて
シン・ウルトラマンの科特隊は4、5人という少数精鋭で、小さな執務室で適当な会話をしている印象が強い。コミカルだし設定も甘く、正直これはあまり好きではなかった。流れに任されている感があり、能力が高いようには見えなかった。現場に行っても何をしているのかよくわからず、冒頭こそそれらしいことをしていたものの、実際それ以降はほとんど仕事をしてないように見えた。
あとしまつの特務隊はちょっと忘れたけれど、軍との共同行動が多く、特別な権限があるくらいであとは区別がちょっとつかなかった。ただ対策チームとしては人も多くしっかりした基地があるし、キャラはバラエティに富みつつコミカルすぎず、議論する様は見ていて楽しさがあった。セットもしっかりしており、きちんと現場に行って仕事をしている質感が出ていたと思う。

・政府要人について
チームとは真逆の印象になる。
シン・ウルトラマンの政府要人は抑制が効いた演技というか基本的に真面目で、仕事もけっこうできる雰囲気があり、それこそシン・ゴジラのイメージに近い。さすがに外星人相手ではタジタジでいい所がなく、会議室もそんなトーンに合わせたように電気が落ちたりしていたけれど(ザラブ星人のせいだと思う)。
あとしまつの政府要人はもうおふざけ全開で、なんなら対策チームと世界観からして違うレベルだ。会議室も画面の収まりというか構図を重視したレイアウトにしており、端的に言ってくだらないポリティカル風刺コメディ舞台演劇を映画のスクリーンでやっている。大臣はアホなギャグを脈絡なく連発するし、現実政治のステレオタイプや小ネタギャグをふんだんに投入している(小ネタギャグはほとんどわからなかったけど)。
あとしまつの方は狙ってやっているのはわかるのだけど、七、八割面白くないのがキツかった。

とまあ、作品でトーンがきっちり分かれているわけではないというのがちょっと面白い。まああとしまつの方は(効果的かはともかく)意図はわかるのだけど、シン・ウルトラマンの方はどうしてそうなったんだろう……。あるいはシン・ウルトラマンの要人達も、出番が少なかったのと外星人に圧されていたからわからなかっただけで、科特隊みたいなノリで一貫してはいたのかもしれない。

・CG等ビジュアルについて
あとしまつの怪獣はよくできていると思うけれども、当たり前だけれど動かないのと、演出の方向性がコミカルなので見た目としてはむしろしょぼく見えるほうに振っていたと思う。風船プルプルとか。
なのでその辺の視覚効果についてはシン・ウルトラマンにかなうことはない。
ただ、舞台セットの質感や撮影方法・効果はあとしまつの方が良く、大作らしいスケール感とディテールがしっかり出せていたと思う。
シン・ウルトラマンは狙ってだと思うのだけど、特撮ドラマ感のある質感に終始しており、巨大怪獣が都市部で暴れていてもスケール感が小さかったし、執務室等の屋内もディテールがいい加減だった気がする。スクリーンで見るにはしょぼかったという気がするので、元のウルトラマンと同様、テレビで見た方がいいのかもしれない。
その辺も作品の方向性の違いがビジュアル面にも表れ、真逆を向いていると言えるかもしれない。

・問題描写について
残念なことにというか、問題視されそうな描写が両作品ともある。
あとしまつはブラックコメディ的なところがあるのだけど、下ネタが言い過ぎとか、韓国や政治家のステレオタイプとかはある。ただ個人的にはその辺はブラックコメディの範疇で消化可能だったし、正直作中の韓国風国家については別に隣国としてアホな主張をさせてるわけでもなかったのでそりゃそう言うよなと普通に納得したくらいだ。まあ、ブラックコメディ自体全て配慮に欠けると言われればそれまで。
ただ、そんな自分でも環境大臣がひっくり返って股間おっぴろげになるシーンはさすがにどうかと思った。下ネタギャグにしても、現代的ではないと思う。うんこちんちんで笑う子供じゃないんだから。いやうんこちんちんギャグもありましたけどね?おばちゃんの股間おっぴろげはそれ以下だと思うよ。ただまあ、なんかそれも真面目にけしからんとか文句言うというよりは時代の流れで特に陳腐化しているというだけで、つまらなさで言ったらおっぴろげより大臣のギャグの方がつまんなかったからな……。
個人的には、シンウルトラマンの性的描写の方が生理的に嫌悪感をもよおした。というのも、そういう映画だと思って見てないという点と、描き方に性的視線が混ざりすぎているという点。特に体臭じっくり嗅ぐ描写まじで気持ち悪かった。
コメディやギャグという言い訳が聞かず、しかも明らかに性的感情を想起させる描き方だったので、ウルトラマンを見に来ているという事実に対するノイズが凄かった。
尻を叩くのもなんか見せ方が嫌だなあと思っていたのでわりと精神的に目を背けていた。

別に上記のような描写をなくせとは言わないのだけど、上手くやって欲しい。時代は変わっていて感じ方も変わっていく中、陳腐化した価値観と陳腐化した手法でTPOを無視した描写を見せられるというのは、しばしばシンプルに不快感をもよおす。
日本の映画の作り手について、作品外でも悪い話が湯水のように湧いて出てきている昨今、作品中ではせめて失望させないで欲しい。

・その他(悪役についてとか?)
とりあえず簡単に並べて語れそうなものでぱっと思いついたのは以上。

あとは、悪役については、シン・ウルトラマンはザラブ星人とメフィラス星人、あと一応ゾーフィ。あとしまつは秘書官。
光の国含む外星人と、秘書官という一人間で、外の敵と内の敵。あるいは、どちらもそれぞれのウルトラマンからすれば同類の敵。ここはまあ上述したような作品性の違いから自明のもので、特に取り分けて掘り下げる程のものでもない気もする。
ただ描き方として、秘書官は最後まで悪役なのかどうなのか判断がつきづらいというのがある。アラタが嫌いで妻を取られると嫉妬しているのはわかる。でも後始末の直接的な邪魔はするか?それは結局ダムの辺りで割とハッキリして、いやそれでも非合理的すぎんかと思っていたらいよいよアラタにミサイル発射でやりやがったこいつ!となるのだけど、悪役がいるなら割とわかりやすくないと、途中どういう見方をすればいいか少し困る。
そんなところで、全体的にあとしまつは見せ方のせいで話がわかりづらかった。
その点、シン・ウルトラマンはわかりやすさに振っていたと思う。説明セリフがクソわかりづらいのは置いておいて。

それと作品構造か。あとしまつは序盤に言及しておいたデウス・エクス・マキナをオチに使って「これまでのは全部無駄でした(人間は結局何もできません)」と宣言して、メタ的に「この映画は最初から予定通りのナンセンスでした」とやってしまう。無駄に付き合わされた客はなんやねんという気持ちにもなるが、まあこういうメタ構造は作り手は面白いもんなんだ。
シン・ウルトラマンの作品構造はちょっと自分の中で掘り下げられなくてわからないのだけど、この作品も相当にメタ的な要素を詰め込んでいる気がする。というか、元ネタオマージュ小ネタの方がメインになってないか。
どちらも内輪ノリの作品という印象が強く、意外と似たもの同士の作品な気がする。というのは前にも書いたね。

まあ、とりあえずそんな感じで一旦書き終わっておく。
昨日シン・ウルトラマンを観てからというもの、大怪獣のあとしまつと対比できるポイントが多くて少し一人で盛り上がっていたので、書ききれたか分からないけれど、ちょっと発散出来た。

追記:Twitterで面白い感想を見かけた。「シン・ゴジラを期待して見に来たら庵野にウルトラマンを見ろと張り手された」みたいな感想だったと思う。その一文を見て、「シン・ゴジラを期待して見に来た客にウルトラマンを見せた」あとしまつを思い出してクスッときてしまった。やっぱシナジーある。